金で幸せは買えるのか?
- 2016/04/17
- 15:20
『お金で幸せは買えないとの主張はよく聞きます。暮らしを快適にはしてくれますが、幸せはまた別という考え方です。
しかしながら、ケンブリッジ大学の研究では「幸せはお金で買える」との結果が出たそうです。7万7000の銀行取引について調べ、個人の好みに沿ってお金を使っている人ほど、幸せであることがわかったそうです。
(中略)
研究者は参加者の実際に使った項目を、性格の特性と照らし合わせたところ、自分の特性にあったものにお金をたくさん使っている人ほど、より幸せであると結果が出ました。
例えば外交的な人は内向的な人に比べて、パブで使う年間の費用が52ポンド(約8000円)多く、同じく誠実性の高い人はジムや健康に関するものに年間124ポンド(約19000円)ほど多く費やしていました。
そして、「人はどうしたら幸せであるか」に関しては
・外向性の高い人は外食やパブなどの外交の場へ出かけること
・協調性の高い人はチャリティなどへ寄付すること
・誠実性の高い人は支払いをきちんとし、健康でいること
自分を表現するものにお金を使うことで満足度は上がり、幸せが得られる結果になりました。』
(らばQ)
最近あんまり仕事の話はしませんがさすがは俺様というべきか、実は今年中にポルシェを買おうか、それとももうちょっと金貯めてフェラーリを買おうかというぐらい稼がせてもらっている、がはははっ。すいません、自分、バカでもとりあえず金を稼ぐ才能だけはありますんで。
とはいえ、物欲に関していえばそれほどなく、車は単純に好きだから欲しいというだけであり、普段の食事なんかは今も昔も至って質素、昨晩も吉野家で牛丼よりもワンランク低い豚丼(並330円)でしたし(笑)。
自分の場合、特に金が幸せの尺度としては考えていないのだが金の稼いだ額がある種のバロメーターにはなるのではないかと思い、必死コイて働いている。
どういうことか?
大学の最高権威といえばいうまでもなく東京大学、東大卒者の生涯平均収入は凡そ3億円だという(2011年度基準)。そう、稼ぐ理由は俺が死ぬまでに3億円以上稼げば少なくとも金銭的な面だけなら東大卒者より秀でて死ねるんじゃないかと、ただそれだけなんすわ。
もちろん、東大を出たって金に無頓着な人も大勢おり、死なない程度に金など稼げればいいという人も今どきは多いし、企業や官庁に就職せず学者の道を目指せば特別な特許でも取らない限り、そんなに裕福な生活は出来ん。いとこが東大出て、今、某大学の教授をしているんですけどとても裕福な生活をしているとは思えんもん。40近くなるまで親から仕送りを受けてたぐらいですからね。いずれ東大に戻り、学部長にでもなればそれなりの給料は貰えるんでしょうけど、少なくとも現時点では俺の方が金だけでいったら優っている。脳みその出来は逆立ちしたって敵いませんけどね。
くれぐれも誤解しないで頂きたいのは別に金のあるなしで人間の優劣をつけているわけではないということ。誰のためでもなく、また特定の誰かと比較するでもなく、客観視出来る指標が欲しくて東大卒者の収入基準と比べているだけ。仮に俺が3億円以上稼いだとしても他人からすればそんなことはどうでもいいことだからね。
そもそも幸せかどうかなんて尺度は人それぞれであり、金がなくとも本人が幸せだと感じりゃ幸せだし、金があっても虚しさだけしかなければそれは不幸せだ。突き詰めたらそれ以上でもそれ以下でもない。俺自身も確かにあればそれなりに便利だと思うものの、特別、金に幸せを求めてはおらん。金の多寡などスポーツの記録程度にしか思っていない。出自がどうであれ、100mを9秒台で走れば認めざるを得ない、ただそんだけ。
よくヤクザもんがヤクザになる理由をいい服着て、いい酒飲んで、いい女をはべらし、いい車に乗るだったりしますが俺の場合そんな原動力は微塵もない(はたして今のヤクザにどれだけ肩で風切って歩いている奴がいるのかって話ですが)。
ただ、現実的な話をすればある程度の金はあった方が幸せ近づくというのは真理だと思う。勉強をしたくても金がなきゃろくな教育も受けられないし、医療だって結局は金のあるなしで受けられる治療の質が変わってくる。こんなときにいうのも不謹慎な話かもしれないが金を掛けて耐震性の強い家を建築するとか、或いは耐震性に優れたマンションに住めば大地震が起きても助かる可能性は格段に高まる。
また、俺の生きがいとは戦うことそのものであったりする。与えられた仕事を粛々とこなすということがどうにもこうにも我慢が出来ん。絶えず何かに挑み、その挑み続けることこそが俺の場合最大の幸せだったりする。その結果、いつも言うように戦い敗れて野垂れ死ぬことは本望だと思っている。ただ、野垂れ死ぬにしてもまずは戦いありきなのだ。戦争をするには金が必要である。いざ、戦いたいなと思っても金がなかったら指くわえて見ているしかないではないか。別に戦い敗れて金を失ってもいいの、それはそれ、やったうえでの結果だから満足して死ねる。だけど、やらずにさ、あの時あれをやっておけばよかったと思いながら死ぬのは何にも増して屈辱である。
この辺の感覚はまあなかなか理解してもらえんとは思うけどね。
しかしながら、ケンブリッジ大学の研究では「幸せはお金で買える」との結果が出たそうです。7万7000の銀行取引について調べ、個人の好みに沿ってお金を使っている人ほど、幸せであることがわかったそうです。
(中略)
研究者は参加者の実際に使った項目を、性格の特性と照らし合わせたところ、自分の特性にあったものにお金をたくさん使っている人ほど、より幸せであると結果が出ました。
例えば外交的な人は内向的な人に比べて、パブで使う年間の費用が52ポンド(約8000円)多く、同じく誠実性の高い人はジムや健康に関するものに年間124ポンド(約19000円)ほど多く費やしていました。
そして、「人はどうしたら幸せであるか」に関しては
・外向性の高い人は外食やパブなどの外交の場へ出かけること
・協調性の高い人はチャリティなどへ寄付すること
・誠実性の高い人は支払いをきちんとし、健康でいること
自分を表現するものにお金を使うことで満足度は上がり、幸せが得られる結果になりました。』
(らばQ)
最近あんまり仕事の話はしませんがさすがは俺様というべきか、実は今年中にポルシェを買おうか、それとももうちょっと金貯めてフェラーリを買おうかというぐらい稼がせてもらっている、がはははっ。すいません、自分、バカでもとりあえず金を稼ぐ才能だけはありますんで。
とはいえ、物欲に関していえばそれほどなく、車は単純に好きだから欲しいというだけであり、普段の食事なんかは今も昔も至って質素、昨晩も吉野家で牛丼よりもワンランク低い豚丼(並330円)でしたし(笑)。
自分の場合、特に金が幸せの尺度としては考えていないのだが金の稼いだ額がある種のバロメーターにはなるのではないかと思い、必死コイて働いている。
どういうことか?
大学の最高権威といえばいうまでもなく東京大学、東大卒者の生涯平均収入は凡そ3億円だという(2011年度基準)。そう、稼ぐ理由は俺が死ぬまでに3億円以上稼げば少なくとも金銭的な面だけなら東大卒者より秀でて死ねるんじゃないかと、ただそれだけなんすわ。
もちろん、東大を出たって金に無頓着な人も大勢おり、死なない程度に金など稼げればいいという人も今どきは多いし、企業や官庁に就職せず学者の道を目指せば特別な特許でも取らない限り、そんなに裕福な生活は出来ん。いとこが東大出て、今、某大学の教授をしているんですけどとても裕福な生活をしているとは思えんもん。40近くなるまで親から仕送りを受けてたぐらいですからね。いずれ東大に戻り、学部長にでもなればそれなりの給料は貰えるんでしょうけど、少なくとも現時点では俺の方が金だけでいったら優っている。脳みその出来は逆立ちしたって敵いませんけどね。
くれぐれも誤解しないで頂きたいのは別に金のあるなしで人間の優劣をつけているわけではないということ。誰のためでもなく、また特定の誰かと比較するでもなく、客観視出来る指標が欲しくて東大卒者の収入基準と比べているだけ。仮に俺が3億円以上稼いだとしても他人からすればそんなことはどうでもいいことだからね。
そもそも幸せかどうかなんて尺度は人それぞれであり、金がなくとも本人が幸せだと感じりゃ幸せだし、金があっても虚しさだけしかなければそれは不幸せだ。突き詰めたらそれ以上でもそれ以下でもない。俺自身も確かにあればそれなりに便利だと思うものの、特別、金に幸せを求めてはおらん。金の多寡などスポーツの記録程度にしか思っていない。出自がどうであれ、100mを9秒台で走れば認めざるを得ない、ただそんだけ。
よくヤクザもんがヤクザになる理由をいい服着て、いい酒飲んで、いい女をはべらし、いい車に乗るだったりしますが俺の場合そんな原動力は微塵もない(はたして今のヤクザにどれだけ肩で風切って歩いている奴がいるのかって話ですが)。
ただ、現実的な話をすればある程度の金はあった方が幸せ近づくというのは真理だと思う。勉強をしたくても金がなきゃろくな教育も受けられないし、医療だって結局は金のあるなしで受けられる治療の質が変わってくる。こんなときにいうのも不謹慎な話かもしれないが金を掛けて耐震性の強い家を建築するとか、或いは耐震性に優れたマンションに住めば大地震が起きても助かる可能性は格段に高まる。
また、俺の生きがいとは戦うことそのものであったりする。与えられた仕事を粛々とこなすということがどうにもこうにも我慢が出来ん。絶えず何かに挑み、その挑み続けることこそが俺の場合最大の幸せだったりする。その結果、いつも言うように戦い敗れて野垂れ死ぬことは本望だと思っている。ただ、野垂れ死ぬにしてもまずは戦いありきなのだ。戦争をするには金が必要である。いざ、戦いたいなと思っても金がなかったら指くわえて見ているしかないではないか。別に戦い敗れて金を失ってもいいの、それはそれ、やったうえでの結果だから満足して死ねる。だけど、やらずにさ、あの時あれをやっておけばよかったと思いながら死ぬのは何にも増して屈辱である。
この辺の感覚はまあなかなか理解してもらえんとは思うけどね。