またぞろ始まる絆の押し売り
- 2016/04/16
- 16:11
正直さぁ、東日本大震災を体感するまでは阪神淡路も新潟中越も大変なことが起きていると理解しつつも、所詮は対岸の火事、どこか遠い国の出来事だろうと思っていた。東日本に住む人の大半はそんな感じだったと思うよ。いわば人ごとなのである。
しかし、今は違う。実際に猛烈な揺れを経験し、あの時、死を意識したから熊本の地震の熾烈さが痛いほどよく分かる。
それもそのはず、インフラの崩壊、食料不足、そして何も起きていない平穏な地域への嫉妬心や敵愾心など、これから起こりうることが全て見えるから余計につらいのだ。
人間勝手なもので自分たちが地震で苦しんでいることと、他の地域の人の平穏さはまったく無関係であるにも関わらず、何故、自分たちだけがこんな辛苦を味わわなくてはならんのかと醜い感情が芽生える。もちろん、そんなことを思わない善良な人も大勢いるだろうが少なくとも俺はそう思った。
大所高所から「絆」とツイートされたってさ、正直腹立たしさ浮かばなかった。ツイートしている連中に悪気がないのは分かる、そればかりか善意で呟いているのもよく分かる。しかし、こっちは死ぬの生きるのの騒ぎをしているのに、安全な場所からポテトチップを頬張りながら呑気に頑張りましょう、応援してますなんていわれたところで鬱陶しいだけだ。金だけ送って黙っててくれたほうが正直ありがたい。また、そういう奴らの大半はとにかく身銭を切るのが嫌だから余計に腹立たしい。呟くことで満たされるちっぽけな自尊心、あまりに安すぎて泣けてくるではないか。であれば、無理して参加せず、テレビを見ておとなしくしていればいいのだ。
同時に絆は鬱陶しいと感じ、人の善意を素直に受け入れられない、料簡の狭い、自分のこともまた凄く嫌になった。
ともかく、一歩立ち止まり、無責任に呟く暇があったら被災地では色んな感情が澱(おり)のように渦巻いているということを知る必要があると思う。
当たり前ですけど、極限状態に陥った人たちと平穏無事な傍観者たちとは物凄い温度差があり、被災地の人を知らず知らずうちに刺激していることがあるのだという事実は事実として受け入れなくてはなるまい。だから無理して絆なんて騒がんでよろしい、騒いでいいのは金を送った連中か、ボランティアとして手を貸した連中のみだ。あたしはそう思います、はい。