神論
- 2015/11/01
- 18:30
ハロウィンの話題ついでに言うと、俺は全ての宗教を否定している。
しかし、神の存在は信じている。神様といっても、キリストやお釈迦様といった宗教上の神ではなく、言うなれば「全宇宙の意思」。
太陽が存在して、地球が自転し、地上に水や空気があるのも全てが偶然の産物なのだけれど、その偶然の産物を作り出すのが目に見えない神の存在だと思っている。
その神様であるが、最近ちょっと考え方が変わった部分がある。
カラフルな熱帯魚や蝶、心を奪われるほど美しい草花、虹やオーロラ、コバルトブルーの海などもそう、地球上に存在する美しい生物や自然は神様が我々に与えたプレゼントであると思っていた。
しかし、本当に神様が与えてくれたものは色鮮やかな態様ではなく、そのようなものを見て幸せな気分になれる「心」なんじゃないかと思うようになった。
凡そらくではあるが、人間以外の生き物は色調を認識することはあっても別に綺麗だとか、優美だとかとは特に思わないはずである。美しいバラに蜂が集うのは蜜を求めてであって、決して幸せな気分になるためではないはずだ。
春、よほどの変人でもない限り、桜の花を見れば幸せな気持ちになれると思う。
これって、親から教わったことでも、教師からそう思えと指示されたわけでもなく、心の中から美しいと感じる気持ちがあるからだと思う。別に桜を見て、美しいという感情を持たなくとも人は生きていくことに支障はない。
だが、神様は桜を見ると幸せになるというスイッチを我々人間の遺伝子に刷り込んだ。何故の理由は分からない。もしかすると幸せになる瞬間がないと、人は常に殺伐としてしまい、人間が生きていくうえで不都合が生ずるということから、一年に一度ぐらいはゆっくりしなさいよと、幸せの種を我々の体内に埋め込んだのかもしれない。そこんところの理由は分からないけど、桜が綺麗なんじゃなくて、桜を見て綺麗だと思う心を神様が埋め込んだと思うのだ。
ドブネズミを見れば大抵の人は嫌悪感を示す、その嫌悪感とて理屈は桜と同じで、「嫌悪感」という負の心を神様が人間の体内に埋め込んだと思うのだ(病原菌をまき散らすという意味はさておき)。
本来、神様の前では桜もドブネズミも、そして我々人間も全て同列なはずである。数の多い少ない、寿命の長い短いは別にしてその存在は全て平等である(と思う)。決して人間だけが特別な存在というわけではない。
でもまた、ここも神の気まぐれというか、神の意志というか、神様は我々人間にのみ、「自我」を与えた。
本来、生命は生きるためだけに最低限度の食料と生活圏があればよい。ライオンやトラだって腹が満たされればむやみな殺生は行わず、毒蛇だってテリトリーを侵さなければ襲ってくることはない。そうして調和が取れているはずなのにどういうわけか、神様は綺麗という感情もそうだが人間には様々な感情を埋め込んだ。その理由は分からない。人間は何千年後か、何億年後か、或いはたかだか数百年後か、このままいけばいつの日か絶滅してしまうと思う。その絶滅への大行進も人間自身が導いた結末なのだけれど、もしかすると神様が絶滅へのプログラムを最初からか、或いは途中からは分からぬが我々に埋め込んだんじゃないかと思っている。
って、なんで、こんなこと書いてんだ、俺・・・。
疲れてんのか?
しかし、神の存在は信じている。神様といっても、キリストやお釈迦様といった宗教上の神ではなく、言うなれば「全宇宙の意思」。
太陽が存在して、地球が自転し、地上に水や空気があるのも全てが偶然の産物なのだけれど、その偶然の産物を作り出すのが目に見えない神の存在だと思っている。
その神様であるが、最近ちょっと考え方が変わった部分がある。
カラフルな熱帯魚や蝶、心を奪われるほど美しい草花、虹やオーロラ、コバルトブルーの海などもそう、地球上に存在する美しい生物や自然は神様が我々に与えたプレゼントであると思っていた。
しかし、本当に神様が与えてくれたものは色鮮やかな態様ではなく、そのようなものを見て幸せな気分になれる「心」なんじゃないかと思うようになった。
凡そらくではあるが、人間以外の生き物は色調を認識することはあっても別に綺麗だとか、優美だとかとは特に思わないはずである。美しいバラに蜂が集うのは蜜を求めてであって、決して幸せな気分になるためではないはずだ。
春、よほどの変人でもない限り、桜の花を見れば幸せな気持ちになれると思う。
これって、親から教わったことでも、教師からそう思えと指示されたわけでもなく、心の中から美しいと感じる気持ちがあるからだと思う。別に桜を見て、美しいという感情を持たなくとも人は生きていくことに支障はない。
だが、神様は桜を見ると幸せになるというスイッチを我々人間の遺伝子に刷り込んだ。何故の理由は分からない。もしかすると幸せになる瞬間がないと、人は常に殺伐としてしまい、人間が生きていくうえで不都合が生ずるということから、一年に一度ぐらいはゆっくりしなさいよと、幸せの種を我々の体内に埋め込んだのかもしれない。そこんところの理由は分からないけど、桜が綺麗なんじゃなくて、桜を見て綺麗だと思う心を神様が埋め込んだと思うのだ。
ドブネズミを見れば大抵の人は嫌悪感を示す、その嫌悪感とて理屈は桜と同じで、「嫌悪感」という負の心を神様が人間の体内に埋め込んだと思うのだ(病原菌をまき散らすという意味はさておき)。
本来、神様の前では桜もドブネズミも、そして我々人間も全て同列なはずである。数の多い少ない、寿命の長い短いは別にしてその存在は全て平等である(と思う)。決して人間だけが特別な存在というわけではない。
でもまた、ここも神の気まぐれというか、神の意志というか、神様は我々人間にのみ、「自我」を与えた。
本来、生命は生きるためだけに最低限度の食料と生活圏があればよい。ライオンやトラだって腹が満たされればむやみな殺生は行わず、毒蛇だってテリトリーを侵さなければ襲ってくることはない。そうして調和が取れているはずなのにどういうわけか、神様は綺麗という感情もそうだが人間には様々な感情を埋め込んだ。その理由は分からない。人間は何千年後か、何億年後か、或いはたかだか数百年後か、このままいけばいつの日か絶滅してしまうと思う。その絶滅への大行進も人間自身が導いた結末なのだけれど、もしかすると神様が絶滅へのプログラムを最初からか、或いは途中からは分からぬが我々に埋め込んだんじゃないかと思っている。
って、なんで、こんなこと書いてんだ、俺・・・。
疲れてんのか?