難産
- 2015/09/03
- 14:43
自分もまあ末端の末端ではあるが一応クリエイターの端くれ、生みの苦しみはよ~く分かる。
ヤリマンの子沢山じゃあるまいし、そうそうアイディアなんてもんは生まれないのである。
そもそも、人間の発想というものはすべて過去の経験が土台になっていると思う。
まったくの「無」の状態から新たなものが生まれだすということはない。何かが天啓の如く、ひらめくことがあってもそれはすべて過去の経験の足し算、引き算、掛け算、割り算から導き出されたものに他ならない。ノーベル賞しかり、何十億もする名画もしかり、一見すると超人的な能力の持ち主が無から生み出したと錯覚しがちだが、そうではない。無意識であったとしてもすべて自分が経験した過去に連なっているはずだ。
あくまでも勝手な想像であるが人気アニメのエヴァンゲリン、あれだっていきなり生み出されたわけではなく、ガンダムだったり、マクロスだったりを見て育った少年が僕だったらこういうものを描きたいと願った末の結果だと思うのだ(違っていたらすいません)。もし、過去にガンダムもマクロスも存在していなかったら生まれなかったかもしれない。そのガンダムだってベースになっているのは同様の考え方であり、作者の原風景はマジンガーZや宇宙戦艦ヤマトであるかもしれない。
人間の生活とは芸術に限らず、すべてその繰り返しで成り立っていると思う。
今の文化と江戸時代の文化、わざわざ比べるほどもなく、現代の文化は際立っている(その分、公害や温暖化など弊害も多いが)。
しかし、だからといって江戸時代の人間が現代人よりも知能が劣っているとは思わない。知能のレベルは現代人と同等だと思う。少しずつなにかを生み出していった結果、今があり、また、人類が存在する以上、これからも人間は立ち止まることなく何かを生み出していく。
この生み出していく過程としてぶつかるのが模倣とオマージュ。停滞したままの状態を維持するのが模倣だとするなら、オマージュは元々の制作者に敬意を払いつつ、自分でアレンジして更に優れたものを作り出すことをいうのだと思う。
もちろん、模倣が悪いと言っているのではない、芸術においても模倣は伝統を受け継ぐための重要な手段だ。各地に残る伝統工芸などは何百年も前から製法が殆ど変っていないものも多く、むしろオマージュは禁忌ですらある。つまり模倣の連続だ。
佐野研二郎というゴミ野郎はアーティストを標榜しながら模倣とオマージュの違いも分からんあかんたれ。もうその時点でアーティスト失格ならぬ、人間失格なのである。
俺もチラシの作成など、クライアントの求めに応じて模倣とオマージュを使い分けている。クライアントが何かのデザインを持ち出してきて、これと似た感じで作ってくれと言われれば基本的に似た感じのものを作る。まあパクりだ。それはクライアントの求めに応じてやっているのだから開き直るわけではないが別に恥でもなんでもないと思っている。了解を貰ったうえでのパクリなら、叩かれるのはクライアント自身であり、極端な話、俺は関係ない。叩かれるのが嫌なら初めからオマージュにしておけばいいだけだ。
要はクリエイターたるもの、模倣とオマージュは要所要所で使い分ける必要があると思うのだ。但し、俺とは比べ物にならないぐらい莫大な制作料頂いている佐野クラスの人間は模倣は許されないし、クライアントもそれを望んでいない。模倣で済むのなら別に高い金を払って佐野に依頼せずとも俺だって構わないはずだろう。
いずれにせよ、道を誤ってしまった佐野の罪は大きい。
やっぱりこれだ。

さようなら・・・。
二日連続・・・。
アーッ。
ヤリマンの子沢山じゃあるまいし、そうそうアイディアなんてもんは生まれないのである。
そもそも、人間の発想というものはすべて過去の経験が土台になっていると思う。
まったくの「無」の状態から新たなものが生まれだすということはない。何かが天啓の如く、ひらめくことがあってもそれはすべて過去の経験の足し算、引き算、掛け算、割り算から導き出されたものに他ならない。ノーベル賞しかり、何十億もする名画もしかり、一見すると超人的な能力の持ち主が無から生み出したと錯覚しがちだが、そうではない。無意識であったとしてもすべて自分が経験した過去に連なっているはずだ。
あくまでも勝手な想像であるが人気アニメのエヴァンゲリン、あれだっていきなり生み出されたわけではなく、ガンダムだったり、マクロスだったりを見て育った少年が僕だったらこういうものを描きたいと願った末の結果だと思うのだ(違っていたらすいません)。もし、過去にガンダムもマクロスも存在していなかったら生まれなかったかもしれない。そのガンダムだってベースになっているのは同様の考え方であり、作者の原風景はマジンガーZや宇宙戦艦ヤマトであるかもしれない。
人間の生活とは芸術に限らず、すべてその繰り返しで成り立っていると思う。
今の文化と江戸時代の文化、わざわざ比べるほどもなく、現代の文化は際立っている(その分、公害や温暖化など弊害も多いが)。
しかし、だからといって江戸時代の人間が現代人よりも知能が劣っているとは思わない。知能のレベルは現代人と同等だと思う。少しずつなにかを生み出していった結果、今があり、また、人類が存在する以上、これからも人間は立ち止まることなく何かを生み出していく。
この生み出していく過程としてぶつかるのが模倣とオマージュ。停滞したままの状態を維持するのが模倣だとするなら、オマージュは元々の制作者に敬意を払いつつ、自分でアレンジして更に優れたものを作り出すことをいうのだと思う。
もちろん、模倣が悪いと言っているのではない、芸術においても模倣は伝統を受け継ぐための重要な手段だ。各地に残る伝統工芸などは何百年も前から製法が殆ど変っていないものも多く、むしろオマージュは禁忌ですらある。つまり模倣の連続だ。
佐野研二郎というゴミ野郎はアーティストを標榜しながら模倣とオマージュの違いも分からんあかんたれ。もうその時点でアーティスト失格ならぬ、人間失格なのである。
俺もチラシの作成など、クライアントの求めに応じて模倣とオマージュを使い分けている。クライアントが何かのデザインを持ち出してきて、これと似た感じで作ってくれと言われれば基本的に似た感じのものを作る。まあパクりだ。それはクライアントの求めに応じてやっているのだから開き直るわけではないが別に恥でもなんでもないと思っている。了解を貰ったうえでのパクリなら、叩かれるのはクライアント自身であり、極端な話、俺は関係ない。叩かれるのが嫌なら初めからオマージュにしておけばいいだけだ。
要はクリエイターたるもの、模倣とオマージュは要所要所で使い分ける必要があると思うのだ。但し、俺とは比べ物にならないぐらい莫大な制作料頂いている佐野クラスの人間は模倣は許されないし、クライアントもそれを望んでいない。模倣で済むのなら別に高い金を払って佐野に依頼せずとも俺だって構わないはずだろう。
いずれにせよ、道を誤ってしまった佐野の罪は大きい。
やっぱりこれだ。

さようなら・・・。
二日連続・・・。
アーッ。