筆談ホステスとして有名な斉藤里恵さんが北区の区議に当選したそうだ。
気分を悪くしたらすいませんけど、筆談しか出来ない人を当選させるのはちょっとなぁと思う。
議員になるということは市民の代表者として議会に立つわけでしょ。耳が聞こえない斉藤さんに十分な審議が出来るかのと訝しく思う。
飲み屋でスケベ親父を相手に筆談であれこれおしゃべりするのとはわけが違う。税金から給料を貰うということの重みが分かっているのか。
勘違いされると困るが障害者をバカにしているのではない。また差別を助長しているのではない。
ムードというか、偽善に満ちたヒロイズムというか、なんとなくの感情だけで一票を投じた人が多いんじゃなかろうかと思ってしまう。耳の聞こえない人に議会運営が果たしてうまくいくのだろうかと考えはしなかったのか。人として斉藤さんを応援するのは結構だが議員として彼女を支援するのはまったく別な問題だ。
斉藤さんには障害者が生き生きと生きられる明るい社会作りという高尚高邁な理想があるのかもしれないがだったら別のところで活躍して欲しいと思う。
国会にしろ、寒村にしろ、議会というものは物凄く重く尊いものなのだ。
左翼、右翼、中道、それぞれ、主義主張の違いはあれど、一つの土俵に立てるのは言葉のキャッチボールという共通のルールが存在しているからである。
今後、筆談でするのか、パソコンで文字を打つのかそのへん分かりませんが(というより前例がないため、北区でも苦慮しているという)、言葉と言葉を直接ぶつけ合うよりかなり時間のロスがあるのは明らかだ。また文字で表わすのと言葉で意見を表現するのは汲み取り方に差異が生じ、議員同士、互いにストレスを感じると思う。本音をいえば手話が果たして本当にこちらが意図している通りに伝わっているのだろうかと疑っている俺がいる。いっちゃなんだが外国語の通訳より怪しい。
障害者が安心して暮らしていける明るい社会作りを推進するのは大賛成、そこに異論を挟む余地はまったくないがその社会の骨組みを作るのは健常者である議員達である。道筋をつけるため、当事者である障害者の意見に対し、議員は真摯に耳を傾けなくてはならないというのが本来の在り方じゃないのか。真っ向から障害者として議員に意見をぶつけることが斉藤さんの役割だと思う。何十年かして科学が飛躍的に進化し、人工声帯や人工鼓膜が作られれば別でしょうけど、今はまだ具現化出来ていない。
理解して貰えるかどうかは分からないが絶対に差別ではない。それは声を大にしていいたい。
人間には役割というものがあり、その役割を果たすというのが生きるということでもある。健常者には健常者の障害者には障害者の与えられた役割があり、言い換えれば天命と言ってもいいだろう。
常々いっているが俺はその天命を果たせなくなったら潔く死ぬ。天命とはそれほど重いものなのだ(死ねと言っているわけではない)。
俺の考え方が間違っていたらすいません。