イルカへのレクイエム
- 2015/04/13
- 09:26
イルカに関して言えば浜に打ち上げられ、もはや瀕死状態のものであれば有り難く頂いていいはずだ。
事実戦後まもなく辺りまではイルカや鯨が浜にあがると地域住人達が鍋を持参で訪れ、解体して海の恵みを平等に分け合ったという。
それなのに今回の鉾田市のイルカ、研究材料にするもの以外は全部ユンボで穴掘って埋めてしまったという、クソたわけが・・・。
自力で泳げる奴だけ海に帰し、どう見てもこれは助からないというものは血抜きしてバラしてしまえばいい。そして食べたい人間だけが自由に持ちかえる。これは無益な殺生ではないはずだ。
イルカや鯨を食べるのを可哀想と思うこと自体は個人の自由であるからまあ構わないのだがじゃあ俺は問いたい、牛、豚、鶏を食べるのは残酷じゃないのか?
あれは家畜として人為的に生産しているものだから可哀想の範疇外だとおっしゃるのであればそれこそ命に対する冒涜である。
生きものという観点からすれば野性も家畜もない。たまたま生まれ落ちた場所が自然か人工かというだけであり、どちらも尊い命という点に相違はない。
だからこそ、家畜であろうとも食べるときは感謝を込めて「頂きます」という。頂きますというのは命を頂くということである。
助かる見込みがないのだ、イルカや鯨だって瀕死のものであれば頂いてしまっても構わないだろう。
すると、クソバカはイルカを食べずとも牛や豚、鶏があるじゃない、それなのにわざわざなんでイルカを食べるのかというが食文化には地域性があるだろう。それをすべて否定してしまったら世の中はつまらない、フラットな世界になってしまう。
支那人や朝鮮人は寒気がするほど大嫌いだが、さりとてきゃつらの犬食文化を否定するつもりは毛頭ない。犬が好きなら好きほど食べればいい。
ただ、犬に限ったことではないが命を頂く以上、頂く命に対し、感謝を込めて最大限の敬意を表するのが殺すものへのレクイエムだと思う。犬を食うこと自体は構わないが劣悪な環境で育てて残忍な方法で殺すような真似はやめなさいよということだ。
もし、俺がイルカを頂くなら苦しまないよう一思いに殺してやる。その上で血抜きをして有り難く頂く。
俺は命をおもちゃにするということが大嫌いだ。
今から三十年以上前の話だが生きた猿の頭を刃物でくり貫き、まだ生きている猿の脳みそをスプーンですくって食うというテレビ番組があったが(今なら放送禁止)、そういうのはやめろ。どうしても猿の脳みそが食いたいのであれば心臓を一突きにしてせめて殺したうえで食えよ。俺はそう思う。
人間の生物学的な性質が雑食性な以上、他の生きものを殺して食うことは歓びであると同時に原罪だと思う。
罪を背負うのであれば殺す生きものに対し最大の感謝をするのは当然だ。
その上で、数を調整しながら食べるのはなんら問題はない。また、鯨やイルカに関してはある程度間引かないとサバやイワシ、アジなどの小魚を食い付くしてしまい、漁業をする人達に深刻なダメージを与える。それだけであればまだ経済的なことだから構わないが小魚を食い尽くすということはしいてはイルカ達自身が絶滅する原因にもなり、生態系を壊す要因にもなる。
地球上に於いては人間が唯一神なのだ。
その神たる人間が科学的に数を調整していくことこそが、生物が種を維持していくために残されたたった一つの道なのである。
産業革命以前であれば放っておくことこそが自然であったがここ百年の間に地球の秩序は大幅に変わってしまった、50億年以上続いた気の遠くなる年月を人類はたった百年で劇的に変えてしまったのだ。
この流れを止められないのであれば後はいかに傷口を少なくが人間の償う業ともいえる。
人は神であると同時に破壊者なのだ。
そして、俺はイルカを食べられない愚痴をここにうだうだと書くのである。
あー、イルカ食べてぇ~、バタバタ(座布団を抱えながら床の上で)。
事実戦後まもなく辺りまではイルカや鯨が浜にあがると地域住人達が鍋を持参で訪れ、解体して海の恵みを平等に分け合ったという。
それなのに今回の鉾田市のイルカ、研究材料にするもの以外は全部ユンボで穴掘って埋めてしまったという、クソたわけが・・・。
自力で泳げる奴だけ海に帰し、どう見てもこれは助からないというものは血抜きしてバラしてしまえばいい。そして食べたい人間だけが自由に持ちかえる。これは無益な殺生ではないはずだ。
イルカや鯨を食べるのを可哀想と思うこと自体は個人の自由であるからまあ構わないのだがじゃあ俺は問いたい、牛、豚、鶏を食べるのは残酷じゃないのか?
あれは家畜として人為的に生産しているものだから可哀想の範疇外だとおっしゃるのであればそれこそ命に対する冒涜である。
生きものという観点からすれば野性も家畜もない。たまたま生まれ落ちた場所が自然か人工かというだけであり、どちらも尊い命という点に相違はない。
だからこそ、家畜であろうとも食べるときは感謝を込めて「頂きます」という。頂きますというのは命を頂くということである。
助かる見込みがないのだ、イルカや鯨だって瀕死のものであれば頂いてしまっても構わないだろう。
すると、クソバカはイルカを食べずとも牛や豚、鶏があるじゃない、それなのにわざわざなんでイルカを食べるのかというが食文化には地域性があるだろう。それをすべて否定してしまったら世の中はつまらない、フラットな世界になってしまう。
支那人や朝鮮人は寒気がするほど大嫌いだが、さりとてきゃつらの犬食文化を否定するつもりは毛頭ない。犬が好きなら好きほど食べればいい。
ただ、犬に限ったことではないが命を頂く以上、頂く命に対し、感謝を込めて最大限の敬意を表するのが殺すものへのレクイエムだと思う。犬を食うこと自体は構わないが劣悪な環境で育てて残忍な方法で殺すような真似はやめなさいよということだ。
もし、俺がイルカを頂くなら苦しまないよう一思いに殺してやる。その上で血抜きをして有り難く頂く。
俺は命をおもちゃにするということが大嫌いだ。
今から三十年以上前の話だが生きた猿の頭を刃物でくり貫き、まだ生きている猿の脳みそをスプーンですくって食うというテレビ番組があったが(今なら放送禁止)、そういうのはやめろ。どうしても猿の脳みそが食いたいのであれば心臓を一突きにしてせめて殺したうえで食えよ。俺はそう思う。
人間の生物学的な性質が雑食性な以上、他の生きものを殺して食うことは歓びであると同時に原罪だと思う。
罪を背負うのであれば殺す生きものに対し最大の感謝をするのは当然だ。
その上で、数を調整しながら食べるのはなんら問題はない。また、鯨やイルカに関してはある程度間引かないとサバやイワシ、アジなどの小魚を食い付くしてしまい、漁業をする人達に深刻なダメージを与える。それだけであればまだ経済的なことだから構わないが小魚を食い尽くすということはしいてはイルカ達自身が絶滅する原因にもなり、生態系を壊す要因にもなる。
地球上に於いては人間が唯一神なのだ。
その神たる人間が科学的に数を調整していくことこそが、生物が種を維持していくために残されたたった一つの道なのである。
産業革命以前であれば放っておくことこそが自然であったがここ百年の間に地球の秩序は大幅に変わってしまった、50億年以上続いた気の遠くなる年月を人類はたった百年で劇的に変えてしまったのだ。
この流れを止められないのであれば後はいかに傷口を少なくが人間の償う業ともいえる。
人は神であると同時に破壊者なのだ。
そして、俺はイルカを食べられない愚痴をここにうだうだと書くのである。
あー、イルカ食べてぇ~、バタバタ(座布団を抱えながら床の上で)。