戦争論
- 2015/03/05
- 16:19
『「ようござんすね? このまま戦争で」──日本の言論空間を一変させたベストセラー『戦争論』から17年、小林よしのり氏が改めて世に問うた『新戦争論1』(幻冬舎刊)が話題を呼んでいる。かつて『戦争論』で「戦争に行きますか? それとも日本人やめますか?」と問うた小林氏は、今作では一転して戦争に向かおうとしている現在の日本の空気に疑問を呈している。その意図を小林氏が語る。
* * *
わしは『新戦争論1』のなかで、「そろそろ戦争(やり)たいんじゃないか?」と挑発した。
今回の人質事件を受けて、ネットなどでは「イスラム国にやり返せ」という声が高まっているし、首相の安倍も「罪を償わせる」と過激な物言いをした。日本人のなかに戦争を求めるムードがあるのは確かだろう。しかし、果たしていまの日本人にイスラム国と本気で戦争するだけの覚悟はあるのか。
罪を償わせるというのは、普通に考えれば軍事的に報復するということを指す。しかしこの場合、実際に戦うのはヨルダンであり、アメリカではないか。日本はただそうした国々にお金を出すだけ。お金を出して復讐するなんて、それはもはや『おぼっちゃまくん』と同じである。結局、国内の安全圏で物を言ってるだけだ。
それは好戦的なネトウヨたちにしても同じことだ。経済的にも社会的にも閉塞感を抱えた若者層が、「祭りがほしい」と戦争を求めている。実はそれは、欧米社会での疎外感からイスラム国を目指す若者と同質である。イスラム国も日本のネトウヨも、もとを正せばアメリカが生んだグローバリズムの「影」なのだ。自らが生んだ影と戦うのだから、アメリカにとって対イスラム国の戦争が難しいのは当然である。
ただし、ネトウヨにはイスラム国に行く勇気もイスラム国と戦う覚悟もない。リスクが少ないところで大騒ぎしている、ただの野次馬でしかない。いつから日本人はこんなに弱くなったのか。 』(SAPIO2015年4月号)
こいつはアホなのか?
何故イスラム国と戦争をしなくちゃならんのか?
勝手に死んだ民間人二人の弔い合戦?まったく意味がわからんのだが。戦争とは『得る』ための手段であり、くれぐれも戦争が目的ではない。ここを勘違いしてはいけない。イスラム国に勝って何を得られるというのか、石油利権を手に入れられるというのなら一戦交えるのも結構だが、得られるのは名声という実態のないものだけである、これでは戦争をする意味などまるでない。別に奴らに臆しているわけではない。多大な金と人員を使い、仮にイスラム国を壊滅させたとしても日本として得るものがなければそんなものは単なる独りよがりでしかないではないか。
戦争論には世界的な名著が二つある。孫子の兵法とクラウゼヴィッツの戦争論。クラウゼヴィッツの戦争論は今から200年ほど前に著わされたものでまだ比較的歴史は浅いが孫子の兵法は2500年前に著わされたものとされている(諸説あり)。クラウゼヴィッツの戦争論が戦術を中心とした技術論を主に著わしているのに対し、孫子の兵法は戦争をすることの意義を主に著わしている。精神論的な記述も数多い。その孫子に有名な一節がある。
『兵とは国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり』
現代語に訳せば「戦争(兵が戦争の意味)とは国家の大事である。国民の死活がきまることで国家の存亡の分かれ道であるから、よくよく熟慮しなければならない」ということであろう。戦争が国民に多大な負担を強いるのは今も昔も変わらない。孫子は戦争をしないに越したことはないがやるときは熟慮に熟慮を重ねるべきだと結んでいる。
仮に今日本が憲法上の制約がなく戦争を出来る国だとする。はたしてイスラム国と戦う大義があるのだろうか?小林は「リスクが少ないところで大騒ぎしている、ただの野次馬でしかない」と語っているが余計なリスクがあればなおのこと戦争なんてすべきではない。領土や利権を手に入れられるのであれば積極的に介入すべきだろうがよしんばイスラム国に勝ったとしても元々がイラクやシリアの領土であるわけだから、日本のものになるはずがない。だったら残虐だとか、非人道的だろうが所詮は対岸の火事、放っておけばいい。語弊があるかもしれないが日本人にとってイスラム国の凶暴性などホラー映画の一コマでしかない。ギャーギャー騒いで呑気に酒の肴にするぐらいでちょうどいいのだ。
余談だが俺は孫子の兵法は何度も繰り返し読んでいる。支那人は朝鮮人と同じぐらい大嫌いだが(台湾人は別)、孫子の兵法は唸らされるぐらいの名著だ。影響を受けたのは日本人であれば武田信玄(有名な風林火山は孫子の兵法から)、上杉謙信、織田信長などの武将たち、海外であれば三国志の英雄魏の曹操はもちろん、ナポレオン、そしてヒトラー、世界中の多くの人が読んでいる。
小林も戦争論を著わすぐらいだから兵法を読んでいると思うのだが今回のSAPIOを見る限りあまりに稚拙だ。
何度も言うが首をはねられたとギャーギャー騒いでいるぐらいでちょうどいいのである。だって無関係なんだから。別にジャーナリストや物見遊山の暇人(湯川さんとか)が首をはねられたからって日本人全体の生活に影響なんかないだろう。じゃあ憤りを感じている人に聞きたいが、湯川さんや後藤さんが死んであなたの給料が下がったり、なにか物資が入りづらくなったりしましたか?なーんも変わんねぇだろう。昨日が今日になったぐらい実態はなにも変わらない。つまるところ、リスクを冒してまで戦争をすべきではないということだ。

ゴーマンかましてよかですか?
戦争は手段であり、決して目的ではない。戦争をするならよくよく考え、勝算があるときにだけにすべし。

* * *
わしは『新戦争論1』のなかで、「そろそろ戦争(やり)たいんじゃないか?」と挑発した。
今回の人質事件を受けて、ネットなどでは「イスラム国にやり返せ」という声が高まっているし、首相の安倍も「罪を償わせる」と過激な物言いをした。日本人のなかに戦争を求めるムードがあるのは確かだろう。しかし、果たしていまの日本人にイスラム国と本気で戦争するだけの覚悟はあるのか。
罪を償わせるというのは、普通に考えれば軍事的に報復するということを指す。しかしこの場合、実際に戦うのはヨルダンであり、アメリカではないか。日本はただそうした国々にお金を出すだけ。お金を出して復讐するなんて、それはもはや『おぼっちゃまくん』と同じである。結局、国内の安全圏で物を言ってるだけだ。
それは好戦的なネトウヨたちにしても同じことだ。経済的にも社会的にも閉塞感を抱えた若者層が、「祭りがほしい」と戦争を求めている。実はそれは、欧米社会での疎外感からイスラム国を目指す若者と同質である。イスラム国も日本のネトウヨも、もとを正せばアメリカが生んだグローバリズムの「影」なのだ。自らが生んだ影と戦うのだから、アメリカにとって対イスラム国の戦争が難しいのは当然である。
ただし、ネトウヨにはイスラム国に行く勇気もイスラム国と戦う覚悟もない。リスクが少ないところで大騒ぎしている、ただの野次馬でしかない。いつから日本人はこんなに弱くなったのか。 』(SAPIO2015年4月号)
こいつはアホなのか?
何故イスラム国と戦争をしなくちゃならんのか?
勝手に死んだ民間人二人の弔い合戦?まったく意味がわからんのだが。戦争とは『得る』ための手段であり、くれぐれも戦争が目的ではない。ここを勘違いしてはいけない。イスラム国に勝って何を得られるというのか、石油利権を手に入れられるというのなら一戦交えるのも結構だが、得られるのは名声という実態のないものだけである、これでは戦争をする意味などまるでない。別に奴らに臆しているわけではない。多大な金と人員を使い、仮にイスラム国を壊滅させたとしても日本として得るものがなければそんなものは単なる独りよがりでしかないではないか。
戦争論には世界的な名著が二つある。孫子の兵法とクラウゼヴィッツの戦争論。クラウゼヴィッツの戦争論は今から200年ほど前に著わされたものでまだ比較的歴史は浅いが孫子の兵法は2500年前に著わされたものとされている(諸説あり)。クラウゼヴィッツの戦争論が戦術を中心とした技術論を主に著わしているのに対し、孫子の兵法は戦争をすることの意義を主に著わしている。精神論的な記述も数多い。その孫子に有名な一節がある。
『兵とは国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり』
現代語に訳せば「戦争(兵が戦争の意味)とは国家の大事である。国民の死活がきまることで国家の存亡の分かれ道であるから、よくよく熟慮しなければならない」ということであろう。戦争が国民に多大な負担を強いるのは今も昔も変わらない。孫子は戦争をしないに越したことはないがやるときは熟慮に熟慮を重ねるべきだと結んでいる。
仮に今日本が憲法上の制約がなく戦争を出来る国だとする。はたしてイスラム国と戦う大義があるのだろうか?小林は「リスクが少ないところで大騒ぎしている、ただの野次馬でしかない」と語っているが余計なリスクがあればなおのこと戦争なんてすべきではない。領土や利権を手に入れられるのであれば積極的に介入すべきだろうがよしんばイスラム国に勝ったとしても元々がイラクやシリアの領土であるわけだから、日本のものになるはずがない。だったら残虐だとか、非人道的だろうが所詮は対岸の火事、放っておけばいい。語弊があるかもしれないが日本人にとってイスラム国の凶暴性などホラー映画の一コマでしかない。ギャーギャー騒いで呑気に酒の肴にするぐらいでちょうどいいのだ。
余談だが俺は孫子の兵法は何度も繰り返し読んでいる。支那人は朝鮮人と同じぐらい大嫌いだが(台湾人は別)、孫子の兵法は唸らされるぐらいの名著だ。影響を受けたのは日本人であれば武田信玄(有名な風林火山は孫子の兵法から)、上杉謙信、織田信長などの武将たち、海外であれば三国志の英雄魏の曹操はもちろん、ナポレオン、そしてヒトラー、世界中の多くの人が読んでいる。
小林も戦争論を著わすぐらいだから兵法を読んでいると思うのだが今回のSAPIOを見る限りあまりに稚拙だ。
何度も言うが首をはねられたとギャーギャー騒いでいるぐらいでちょうどいいのである。だって無関係なんだから。別にジャーナリストや物見遊山の暇人(湯川さんとか)が首をはねられたからって日本人全体の生活に影響なんかないだろう。じゃあ憤りを感じている人に聞きたいが、湯川さんや後藤さんが死んであなたの給料が下がったり、なにか物資が入りづらくなったりしましたか?なーんも変わんねぇだろう。昨日が今日になったぐらい実態はなにも変わらない。つまるところ、リスクを冒してまで戦争をすべきではないということだ。

ゴーマンかましてよかですか?
戦争は手段であり、決して目的ではない。戦争をするならよくよく考え、勝算があるときにだけにすべし。
