闘病日記を見て
- 2015/02/15
- 00:45
自分のことを棚にあげて言うのもなんだがよくわからないのは闘病日記ブログを書いている人達な。
日本ブログ村しかり、アメーバしかり、はたまた当fc2しかり、闘病日記ブログは読者の共感を呼びやすいため、人気のカテゴリーである。その人気のカテゴリーに疑問があるので今日は思ったことを率直に書いてみたい。不快に思われる方もいらっしゃるかもしれないが平にご容赦頂きたい。
ではさっそくいく、いや、自分自身が病気と闘っているのならそれは別にいいのだが、奥さんだったり、旦那さんだったり、子供さんだったり、或いは親御さんだったりと、自分以外の誰かを綴るって行為、正直俺には理解不能だ。
大体闘病日記のカテゴリーの上位にランキングされている人達って癌や先天性の障害など、重症患者が多いじゃない、俺が引くのは手術室や集中治療室の前で写メパシャパシャ撮ってさ、『今、ナミちゃんは必死で闘ってます!神様、どうか助けてください』なんてブログを更新してる奴な、あれってちょっと人間的に気持ち悪すぎやしないか?
大事な人が手術室に入っていれば祈るのが精一杯で、呑気にブログを更新している余裕なんかふつーねぇだろう。
祈る思いで待っている横でスマホパチパチやりながらブログなんか書いているのを見たら、俺は間違いなくそいつ対し、いい加減にしろとどやしつける。
また、そんな切迫した状況で『ナミタン、頑張れー!ボクも応援してるよ~!』なんて素っ頓狂なコメントを打っている奴らも間抜けすぎて相当気持ち悪い。寒気がして背筋が凍りそうになる。
いつも言うように違法じゃないので(病院での無断撮影が許可されてるかどうかは別にして)、突き詰めれば何をどうしようと人の勝手っちゃ勝手なんだけど、アップする方もする方ならコメント打つ方も打つ方で、傍観者の立場からすると双方があまりにも寒過ぎてドン引きしてしまう。
先日見たブログは旦那さんが癌で亡くなってしまったんだわ、そのこと自体は本当にお気の毒な限りなのだが、葬式の翌日のブログには床の間に設置した祭壇にビールを飾り、『今から愛する旦那様と二人で乾杯するんだ』みたいなことを書いてあったんだけどさ、これって明らかに方向が亡くなった旦那の方じゃなく、読者の方を向いているんだよね。だって写真バッチリ決まってんだもん(笑)。彼女はいったい何がしたいのか。
結局こういう人ってさ、安っぽいヒューマニズムに酔っていたいだけなんだよな。
チヤホヤされることのみに生きがいを感じ、いつしか、闘病の記録をつけるという本来の目的から外れ、アクセス数が増えたり、コメントが増えることにエクスタシーを感じるきわめて単細胞なエゴイストでしかない。
また、もう一つお聞きしたいのは障害をお持ちのお子さんや難病、小児癌などで苦しむお子さんをお持ちのお母さんで闘病ブログを書いていらっしゃる方にですが、お子さんはブログに書かれること、言葉は悪いが晒し者にされることを、本当に望んでいらっしゃるのでしょうかってこと。
あくまでも俺の意見ね、俺が子供でなんらかの病気で苦しんでいるのならわざわざブログなんかに書かないで欲しいと思ってしまうことだろう。お母さんが個人的に紙のダイアリーに日々の出来事を記すのは全然構わないが晒し者にさせられるのはまっぴら御免だ。見ず知らずの赤の他人に頑張れ、応援してるなんて言われたところで空しいだけでなんの意味もねぇもん。
人と人とのつながりというのは本当に大切なものだ。人は人と繋がらずにして生きていくことは出来ない。だからこそ、『絆』を大事にする。絆は決してツイッターで拡散したり、『いいね!』を押すためのものではない。言うなれば絆とはリアルでの人間関係を円滑に進める潤滑油のようなもの。
残念ながら見ず知らずの人間同士が集うネットの関係において、絆なんてものは99%存在しない。頑張れのコメントをくれている人がこれを治療費の足しにしてくださいとまとまった金を振込んでくれるか?くれねぇだろう(可能性ゼロとは言わないが)。
親、兄弟、親戚、親友、恋人であれば借金をしてでもかけがえのない命を救うため、金を作ってくれることだろう。これが真の絆だ。
水溜まりに張った氷の厚さよりもはるかに薄い、上っ面だけの薄っぺらい関係に至福の喜びを感じてる人ってある意味病気で苦しんでいる当人より、よっぽど病んでいると思うぞ。
最終的にはカラスの勝手でしょうで話は終わってしまうがなんか最近腑に落ちないんすよね。インターネットが形成した一つの文化といえば文化だとしてもね。
日本ブログ村しかり、アメーバしかり、はたまた当fc2しかり、闘病日記ブログは読者の共感を呼びやすいため、人気のカテゴリーである。その人気のカテゴリーに疑問があるので今日は思ったことを率直に書いてみたい。不快に思われる方もいらっしゃるかもしれないが平にご容赦頂きたい。
ではさっそくいく、いや、自分自身が病気と闘っているのならそれは別にいいのだが、奥さんだったり、旦那さんだったり、子供さんだったり、或いは親御さんだったりと、自分以外の誰かを綴るって行為、正直俺には理解不能だ。
大体闘病日記のカテゴリーの上位にランキングされている人達って癌や先天性の障害など、重症患者が多いじゃない、俺が引くのは手術室や集中治療室の前で写メパシャパシャ撮ってさ、『今、ナミちゃんは必死で闘ってます!神様、どうか助けてください』なんてブログを更新してる奴な、あれってちょっと人間的に気持ち悪すぎやしないか?
大事な人が手術室に入っていれば祈るのが精一杯で、呑気にブログを更新している余裕なんかふつーねぇだろう。
祈る思いで待っている横でスマホパチパチやりながらブログなんか書いているのを見たら、俺は間違いなくそいつ対し、いい加減にしろとどやしつける。
また、そんな切迫した状況で『ナミタン、頑張れー!ボクも応援してるよ~!』なんて素っ頓狂なコメントを打っている奴らも間抜けすぎて相当気持ち悪い。寒気がして背筋が凍りそうになる。
いつも言うように違法じゃないので(病院での無断撮影が許可されてるかどうかは別にして)、突き詰めれば何をどうしようと人の勝手っちゃ勝手なんだけど、アップする方もする方ならコメント打つ方も打つ方で、傍観者の立場からすると双方があまりにも寒過ぎてドン引きしてしまう。
先日見たブログは旦那さんが癌で亡くなってしまったんだわ、そのこと自体は本当にお気の毒な限りなのだが、葬式の翌日のブログには床の間に設置した祭壇にビールを飾り、『今から愛する旦那様と二人で乾杯するんだ』みたいなことを書いてあったんだけどさ、これって明らかに方向が亡くなった旦那の方じゃなく、読者の方を向いているんだよね。だって写真バッチリ決まってんだもん(笑)。彼女はいったい何がしたいのか。
結局こういう人ってさ、安っぽいヒューマニズムに酔っていたいだけなんだよな。
チヤホヤされることのみに生きがいを感じ、いつしか、闘病の記録をつけるという本来の目的から外れ、アクセス数が増えたり、コメントが増えることにエクスタシーを感じるきわめて単細胞なエゴイストでしかない。
また、もう一つお聞きしたいのは障害をお持ちのお子さんや難病、小児癌などで苦しむお子さんをお持ちのお母さんで闘病ブログを書いていらっしゃる方にですが、お子さんはブログに書かれること、言葉は悪いが晒し者にされることを、本当に望んでいらっしゃるのでしょうかってこと。
あくまでも俺の意見ね、俺が子供でなんらかの病気で苦しんでいるのならわざわざブログなんかに書かないで欲しいと思ってしまうことだろう。お母さんが個人的に紙のダイアリーに日々の出来事を記すのは全然構わないが晒し者にさせられるのはまっぴら御免だ。見ず知らずの赤の他人に頑張れ、応援してるなんて言われたところで空しいだけでなんの意味もねぇもん。
人と人とのつながりというのは本当に大切なものだ。人は人と繋がらずにして生きていくことは出来ない。だからこそ、『絆』を大事にする。絆は決してツイッターで拡散したり、『いいね!』を押すためのものではない。言うなれば絆とはリアルでの人間関係を円滑に進める潤滑油のようなもの。
残念ながら見ず知らずの人間同士が集うネットの関係において、絆なんてものは99%存在しない。頑張れのコメントをくれている人がこれを治療費の足しにしてくださいとまとまった金を振込んでくれるか?くれねぇだろう(可能性ゼロとは言わないが)。
親、兄弟、親戚、親友、恋人であれば借金をしてでもかけがえのない命を救うため、金を作ってくれることだろう。これが真の絆だ。
水溜まりに張った氷の厚さよりもはるかに薄い、上っ面だけの薄っぺらい関係に至福の喜びを感じてる人ってある意味病気で苦しんでいる当人より、よっぽど病んでいると思うぞ。
最終的にはカラスの勝手でしょうで話は終わってしまうがなんか最近腑に落ちないんすよね。インターネットが形成した一つの文化といえば文化だとしてもね。