少し恨み節
- 2015/01/04
- 14:56
昨日の目標にも書いたが今年はとにかく不毛なことはしないと決めた。
スケールの小さい予言だが俺は67才で病死する。なんで67才なのかといえば特に意味はない。しいていえば平均寿命迄生きられるとは思わないがかといって現在どこかを大病を患っているということもないので(高血圧などはあるが)、そこら辺を均して考えると恐らく67才ぐらいじゃなかろうかと思っているだけである。
となると、残りの人生は25年しかない。
最期の4、5年は床に伏せりがちになるため、実質的に動けるのは20年だ。
確かに20年といえばかなり長いが意外に過ぎてしまえばあっという間だったりする。二十歳までの20年間は長く感じたが、二十歳から四十までの20年間はかなり短く感じた。そう考えるともう無駄な時間を過ごす暇はない。
これが若い頃であれば不毛な時間を過ごすのも悪くない。無駄の積み重ねこそが実は勉強だったりする。しかし、四十過ぎて学んだものが虚無感だけでは取り返しがつかない。
去年は実にくだらなかった。今思い出してもはらわたが煮え繰り返る。
ある風俗店経営者からどうしても知恵を貸してくれと頼み込まれ、バカなりにもない知恵を振り絞り、出し惜しみなく自分のノウハウを提供した。これできっとうまくいくと方向づけが済み、あとは多少の時間と金を費やせば必ず状況は好転するはずと自信を持ってプレゼンをしたにも関わらず、結果は「やっぱなにも変えね」と、鶴の一言によりすべて却下。
だったら頼むなんていうなよ。
俺は旧知の仲ゆえなんとか協力できないかと思い、頭をひねったのだ。打ち合せで使った時間と金が非常に阿呆らしかった。なんで他の仕事を断り、わざわざ時間を作り、ガソリン代を掛けて、打ち合せの場所まで向かい、うまくもねぇコーヒーを自腹切って飲まねばならんのか。
腹が減って死にそうだ、金はないが頼むから何か食わせてくれと乞食にせがまれて、飯を恵む料理人を真の料理人とは言えない。善人かもしれないがプロフェッショナルとしては失格である。
もちろん、震災などで喰うものがなく、皆が飢えで震えている時は別だ。そうじゃなく、平治に於いて、大の大人の腹が減って死にそうだはてめぇのだらしなさが招いた報いである。人に助けを求める前に死ななくてはならない。
昨年の件も同じ。まあ突き詰めれば安請け合いをしてしまった俺に問題があるのだが・・・。
今後は情に流されず、すべて金で解決するようにすることに決めた。親しき仲にも礼儀ありで、予め明確に報酬を決め、金を払わない人間とは仕事をしない。
その結果、仲がこじれてしまってもかまわない。
なにも金に卑しくて言っているわけではない。不毛な時間を費やしたくないのだ。先の件にしたって、金を貰っていれば、やっぱりやらねと言われたところでそれはそれ、ここまでの報酬はきっちり頂きますと強く言える。であればスーパードライで乾杯するような達成感は得られなくとも、少なくとも虚無感に苛まれることはない。
成功報酬制だとしても着手金は必ず貰うようにする。
たとえがおこがましいが昨年お亡くなりなられた高倉健さんは報酬に関してかなりシビアだったという。独り身であるし、金は使いきれないほど持っていたはずだから今更金が欲しいということはあるまい(憶測)。
ただ、人間関係を壊したくないがためにキチンと金銭に対する契約を結ぶことを義務付けていたと思う。だからこそ健さんを悪くいう人はない。
無報酬で人に奉仕するのは、地域の清掃活動など、そういう場面だけでいい。
必ず報酬を決め、それを履行出来ない場合は仕事をしない。あいつはケチだ、守銭奴だと陰口を叩かれても、後々禍根を残すより、よっぽど精神衛生上、健康的だ。
別に俺は人に尊敬されたくて自分の人生を歩んでいるわけではない。俺が楽しく生きるために歩んでいるのだ。
死んでからあの人はいい人でしたと言われたところで現世が屁づまんねぇ人生ならそんなもんなんになんの価値もない。
今更だがお人好しがもとで随分損をした。計算するのも馬鹿馬鹿しいが恐らく千万単位で損をしてんじゃねぇのか。今後は嫌われても構わない。自分のために生きる。
金は汚く稼いで綺麗に遣う。
くれぐれもせこい下衆野郎とは違う、分かってくれるだろうか(誰が?)。
スケールの小さい予言だが俺は67才で病死する。なんで67才なのかといえば特に意味はない。しいていえば平均寿命迄生きられるとは思わないがかといって現在どこかを大病を患っているということもないので(高血圧などはあるが)、そこら辺を均して考えると恐らく67才ぐらいじゃなかろうかと思っているだけである。
となると、残りの人生は25年しかない。
最期の4、5年は床に伏せりがちになるため、実質的に動けるのは20年だ。
確かに20年といえばかなり長いが意外に過ぎてしまえばあっという間だったりする。二十歳までの20年間は長く感じたが、二十歳から四十までの20年間はかなり短く感じた。そう考えるともう無駄な時間を過ごす暇はない。
これが若い頃であれば不毛な時間を過ごすのも悪くない。無駄の積み重ねこそが実は勉強だったりする。しかし、四十過ぎて学んだものが虚無感だけでは取り返しがつかない。
去年は実にくだらなかった。今思い出してもはらわたが煮え繰り返る。
ある風俗店経営者からどうしても知恵を貸してくれと頼み込まれ、バカなりにもない知恵を振り絞り、出し惜しみなく自分のノウハウを提供した。これできっとうまくいくと方向づけが済み、あとは多少の時間と金を費やせば必ず状況は好転するはずと自信を持ってプレゼンをしたにも関わらず、結果は「やっぱなにも変えね」と、鶴の一言によりすべて却下。
だったら頼むなんていうなよ。
俺は旧知の仲ゆえなんとか協力できないかと思い、頭をひねったのだ。打ち合せで使った時間と金が非常に阿呆らしかった。なんで他の仕事を断り、わざわざ時間を作り、ガソリン代を掛けて、打ち合せの場所まで向かい、うまくもねぇコーヒーを自腹切って飲まねばならんのか。
腹が減って死にそうだ、金はないが頼むから何か食わせてくれと乞食にせがまれて、飯を恵む料理人を真の料理人とは言えない。善人かもしれないがプロフェッショナルとしては失格である。
もちろん、震災などで喰うものがなく、皆が飢えで震えている時は別だ。そうじゃなく、平治に於いて、大の大人の腹が減って死にそうだはてめぇのだらしなさが招いた報いである。人に助けを求める前に死ななくてはならない。
昨年の件も同じ。まあ突き詰めれば安請け合いをしてしまった俺に問題があるのだが・・・。
今後は情に流されず、すべて金で解決するようにすることに決めた。親しき仲にも礼儀ありで、予め明確に報酬を決め、金を払わない人間とは仕事をしない。
その結果、仲がこじれてしまってもかまわない。
なにも金に卑しくて言っているわけではない。不毛な時間を費やしたくないのだ。先の件にしたって、金を貰っていれば、やっぱりやらねと言われたところでそれはそれ、ここまでの報酬はきっちり頂きますと強く言える。であればスーパードライで乾杯するような達成感は得られなくとも、少なくとも虚無感に苛まれることはない。
成功報酬制だとしても着手金は必ず貰うようにする。
たとえがおこがましいが昨年お亡くなりなられた高倉健さんは報酬に関してかなりシビアだったという。独り身であるし、金は使いきれないほど持っていたはずだから今更金が欲しいということはあるまい(憶測)。
ただ、人間関係を壊したくないがためにキチンと金銭に対する契約を結ぶことを義務付けていたと思う。だからこそ健さんを悪くいう人はない。
無報酬で人に奉仕するのは、地域の清掃活動など、そういう場面だけでいい。
必ず報酬を決め、それを履行出来ない場合は仕事をしない。あいつはケチだ、守銭奴だと陰口を叩かれても、後々禍根を残すより、よっぽど精神衛生上、健康的だ。
別に俺は人に尊敬されたくて自分の人生を歩んでいるわけではない。俺が楽しく生きるために歩んでいるのだ。
死んでからあの人はいい人でしたと言われたところで現世が屁づまんねぇ人生ならそんなもんなんになんの価値もない。
今更だがお人好しがもとで随分損をした。計算するのも馬鹿馬鹿しいが恐らく千万単位で損をしてんじゃねぇのか。今後は嫌われても構わない。自分のために生きる。
金は汚く稼いで綺麗に遣う。
くれぐれもせこい下衆野郎とは違う、分かってくれるだろうか(誰が?)。