天災で死ぬのは絶対に嫌だ
- 2014/10/14
- 22:58
やっぱ災害で死ぬのって嫌なんだよねぇ。
死ぬときは病気か老衰、そして自決と決めている。
意外かも知れぬが病気で死ぬのは仕方ないと思っている。ガンで死ぬにしてもそれは長年の不摂生が祟ったり、遺伝という抗がえない血の宿命であったりする。運と体力がガンに勝れば生きるし、劣れば死ぬ。また戦うにしても、逃げるにしても自分自身で選択をすることが可能だ。選択した上での負けであるならば悔いはない。また末期と分かりゃ、延命治療などせず、身辺を整理し、モルヒネを打って迎えがくるのを穏やかな気持ちで待つことも出来る。それはそれで自分で選んだのであるから悔いはない。
自決も同等だ。死ぬという選択を自らしたわけであるから後悔などまるでない。悔いるぐらいなら自決などしなきゃいい。自決してすべての罪を無に期するだけだ。ある意味こんなデリシャスな死に方もない。散々借金して返済もせずに自決、散々他人を殺しておきながら罪を償わず自決。傍若無人極まりないが追えない以上、絶対の勝者である。
そして、老衰は言わずもがな。もっとも人間の細胞は本来140歳迄生きられるという研究もあり、百歳迄生きたから老衰だとは言えず、これから先医学が劇的に進歩すればもしかすると百歳なんてもんは単なる通過点なんて時代がくるかも知れない。とはいえ、とりあえず現時点においては平均寿命を超えたら老衰と定義してもいいだろう。その定義を元に、やることをやって老衰で死ねるであればなんのかんのいってこれが最上の生き方に違いはない。最期に特上の鰻でも食わせてもらってあの世に行く。
問題は天災、及び不慮の事故だ。
これは正直ごめん被りたい。
死ぬということは一生に一度しか経験出来ない最大にして最高のフェスティバル、なのに自然を含む第三者に祭りの楽しみを奪われるのが悔しく堪らない。
何も選択を出来ず第三者に選択の権利を強奪されることに我慢がならない。
ただ、天災に関しては明らかに震災以降潮目が変わった。多くの尊い命と引き替えに自治体が天災に関して過敏症になっている。ひたちなか市では前回の台風もそう、今回もそうだがすぐに多数の避難所が開設された。こんなこと震災以前はなかった。幸い、二回とも大過なく済み、避難所は『無駄』になったがこの無駄は正しい無駄だ。
天災で命が奪われることは本当に悲しい。
しょうがないとは口が裂けても言えない。
死ぬときは病気か老衰、そして自決と決めている。
意外かも知れぬが病気で死ぬのは仕方ないと思っている。ガンで死ぬにしてもそれは長年の不摂生が祟ったり、遺伝という抗がえない血の宿命であったりする。運と体力がガンに勝れば生きるし、劣れば死ぬ。また戦うにしても、逃げるにしても自分自身で選択をすることが可能だ。選択した上での負けであるならば悔いはない。また末期と分かりゃ、延命治療などせず、身辺を整理し、モルヒネを打って迎えがくるのを穏やかな気持ちで待つことも出来る。それはそれで自分で選んだのであるから悔いはない。
自決も同等だ。死ぬという選択を自らしたわけであるから後悔などまるでない。悔いるぐらいなら自決などしなきゃいい。自決してすべての罪を無に期するだけだ。ある意味こんなデリシャスな死に方もない。散々借金して返済もせずに自決、散々他人を殺しておきながら罪を償わず自決。傍若無人極まりないが追えない以上、絶対の勝者である。
そして、老衰は言わずもがな。もっとも人間の細胞は本来140歳迄生きられるという研究もあり、百歳迄生きたから老衰だとは言えず、これから先医学が劇的に進歩すればもしかすると百歳なんてもんは単なる通過点なんて時代がくるかも知れない。とはいえ、とりあえず現時点においては平均寿命を超えたら老衰と定義してもいいだろう。その定義を元に、やることをやって老衰で死ねるであればなんのかんのいってこれが最上の生き方に違いはない。最期に特上の鰻でも食わせてもらってあの世に行く。
問題は天災、及び不慮の事故だ。
これは正直ごめん被りたい。
死ぬということは一生に一度しか経験出来ない最大にして最高のフェスティバル、なのに自然を含む第三者に祭りの楽しみを奪われるのが悔しく堪らない。
何も選択を出来ず第三者に選択の権利を強奪されることに我慢がならない。
ただ、天災に関しては明らかに震災以降潮目が変わった。多くの尊い命と引き替えに自治体が天災に関して過敏症になっている。ひたちなか市では前回の台風もそう、今回もそうだがすぐに多数の避難所が開設された。こんなこと震災以前はなかった。幸い、二回とも大過なく済み、避難所は『無駄』になったがこの無駄は正しい無駄だ。
天災で命が奪われることは本当に悲しい。
しょうがないとは口が裂けても言えない。