昨日帰宅したときのことだ。
玄関をドアを開けるとムアーンと澱んだおっさんのニオイがする、完全なる加齢臭、俺のニオイだ。ニオイのキツさに気落ちする。すぐにファブリーズをした。
朝慌てていたため、布団を畳まずそのままにして家を出たのは言い訳になるまい。布団を敷きっぱなしであっても臭くない人は臭くない。一応申し開きをするならば風呂には割りと小まめに入る。決して入らない日がないとはいわないが、シャワーだけも含めると週に4、5回は入る。夏場は毎日以上、つまり、朝シャワーを浴びて、夜また浴びることもある。それでも匂うのは体の表面上の問題ではなく、中から自然と湧き出てくるものなのだろう。
来年はいよいよ五十の大台、三十代になるとき、四十代になるとき、それぞれ楽しみであったが、今は不安しかない。不老不死の薬はないが、寄る年波に抗える唯一の方法は「死」そのものである。今死んでしまえば確かに五十代になる不安は消えようが、死ぬ勇気もない。また、死ぬ必要性も今のところ見い出されない。だからこそ、坦々と五十才という年齢を受け入れるしかないのだが、本当に体力は落ちた。ここ一年、体力の衰えに加え、背中の痛みにも苦しんでいる、病名は筋膜性疼痛症候群というのだそうだが、これがまた厄介。決定的な治療法が未だにない。
昨日もネットで評判の良かった新しい整形外科に掛かってみた。
過去に他院で撮ったMRIのCD-Rを先生に渡す。「確かに画像を見る限り、腫瘍だとか、骨の出っ張りだとか、手術して取り除くようなものはないですねぇ」という。
先生は俺を安心させるために言ってくれたのだろうが、むしろ俺からすると逆だ。余計不安になる。なぜなら手術して取り除けるものがあればそれを取り除けばいいだけなのだから話は早い(もちろん部位によってはそんな単純な話でもないが)、もし切って治るならさっさと手術してくれというだろう。ただ、医師の名誉のためにいうと、確かに評判のよさは頷ける、人柄のとてもいい先生で親身になって患者の話を聞いてくれる。医師によっては患者が病名の話をすると、それを決めるは医師である私だと途端に機嫌の悪くなる奴がいるが、そんなことは微塵もなかった。看護師も含め対応のいいクリニックだ。よって医師に責任はない。こんな病気を患っている俺が悪いのだ。
原因不明の痛みは本当につらい。殆ど毎日明け方に掛け痛み出す、最近は耐性が出来てしまったからだろうか、痛み止めもあまり効かない。きっつい加齢臭やら原因不明の痛みやらで五十代に希望なんて微塵もない。
こんな生活があと五十年も続くのかと思うと気が重い。俺は死んだ婆さんにならい百歳まで生きるつもりだ。婆さんは102歳で死んだので俺は婆さんに敬意を表し、二歩下がって百歳と決めている。
両親や舎弟の無限次朗はそんなに生きられるはずがねぇだろう、六十代で死ぬといってきかない。親も親なら舎弟も舎弟だと思う。人の寿命をなんだと思ってんだ。
『部屋と加齢臭と私 愛するあなたのため
毎日出していたいから
人生の記念日には 君はクサイといって
私を名前で呼んで
その気でいさせて~♪』