『茨城県教育委員会は11月19日、長谷川智恵子教育委員による障害児をめぐる発言について撤回すると発表した。
朝日新聞などの報道によると、長谷川委員は18日の県総合教育会議において、障害児らが通う特別支援学校を視察したことを踏まえて、「妊娠初期にもっと(障害の有無が)わかるようにできないのか」「茨城県では減らしていける方向になったらいい」などと発言。大きな批判が集まっていた。
19日に発表されたコメントは以下の通り。
●長谷川教育委員
この度の私の総合教育会議での発言により、障害のある方やご家族を含め、数多くの方々に多大なる苦痛を与えましたことに、心からお詫びを申し上げますとともに発言を撤回させていただきます。
言葉足らずの部分がありましたが、決して障害のある方を差別する気持ちで述べたものではありません。反対に、生徒さん達の作品を拝見し、多様な才能をお持ちでいることも理解しており、美術の世界で、もっとお手伝いができるのではないかと思いました。また、産まれてきた子どもたちの命は全て大切なものであると考えております。
今後は、教育委員として今まで以上に研鑽を積み、よりよい茨城の教育の推進のために微力ながら力を尽くしてまいりたいと考えております。』
(ねとらぼ)
『これは人間の命をコストパフォーマンスで考え、コスパの悪い障害児が生まれると家族も教職員も大変で予算も掛かるから減らしていった方がいいとするもの。これはナチスが優生学思想に基いて障害者らを安楽死させていったT4作戦を彷彿とさせますが、長谷川の主張が優生学はもとよりコスパ至上主義に基いて為されているというのは極めて信じがたくおぞましいもの。』
(BUZZAP!)
『長谷川センセイ、私も生まれてこないほうがよかったですかね? / 障害児の出産「茨城では減らせる方向に」 教育委員発言』
(乙武 洋匡)
こいつらはアホだろ。これは批判する奴がアホだ。
不肖、わたくし目もまあ人の親なワケです。娘が生まれるとき、ひたすら祈ったのはブスでもバカでもいいからとにかく五体満足で生まれてくださいということである。
これが親の率直な気持ちじゃないの?
人は業の深い生き物であるから五体満足で生まれてきてはじめて、頭がよくなって欲しいとか、器量よしに育って欲しいと願うもの、生まれる瞬間に知性だとか、器量だとかと騒ぐ親ってそうそういないと思うぞ。自分の両親を含め、少なくとも俺の周りにはそんな人はいない。
以前、ある人と話したとき、目が見えないことやダウン症も一つの個性であるからそれは誇れることだと、その彼女は仰っていましたが、それは生まれてきた後の話であり、俺が言っているのは健常者として生まれてこれるのであればそれがまずは一番だろうといっている。
こういうことを言うのも大変不謹慎な話ではあるが、自分の子供が生まれてくるとき、神様に健常者か障害児が好きな方を選べと言われたとする(ホントすまん、変な例えで)。そのときに障害児を希望する人がいてももちろんいいんだけど、恐らくほぼ100%の親は健常者でお願いしますと頼み込むと思うんだわ。違いますか?
命を選定するのではなく、まずは気持ち、覚悟の問題。
俺は障害者の人が明るく暮らしていける世の中こそが健全な社会だと思っており、健常者もそのための一助を担わなければならないと思っているのだが、それはあくまでも自分が障害者とはまったく無関係の健常者だからこそいえることであり、いざ実際に肉親にそういった人がいる人のことを慮ると、障害があるのも一つの個性だから楽しく生きようぜなどと、無責任なことはいえない。
最近は医療の技術が発達して母親のお腹にいるうちからある程度その子が障害者かどうかは分かるようになってきている。この長谷川教育委員の発言の意図は別に障害児はいらないので堕胎してしまえということではなくてね、夫婦には生む生まないの選択肢を与えようというものじゃない。その結果、障害児でも自信を持って育てていくというのであれば生めばいいし、反対にとても育てていく自信がないというのであれば堕胎も一つの方法だといっているに過ぎないだろう。少なくとも俺はそう理解した。
夫婦にとって、障害のある子を育てていくというのはとてつもなく大きなことなのだ。受け入れる受け入れないの選択肢があっても決して間違いではない。
それよりも育てていく自信もないのに、なんとなくの気持ちだけで無理やり生を受ける子のほうがよっぽど不幸だ。
繰り返しますよ、障害者だから生まずに殺してしまえといっているのではない、また、障害者として頑張っていらっしゃる方を侮蔑するつもりなど断じてない。
こういうことをいうと赤に塗れた左翼バカはすぐにナチスの選民思想だというがまったく奴らの短絡的な放射脳には呆れる。
そうじゃなくて夫婦にはまずよく考えてくださいということだ。夫婦、そして両親や兄弟なども交えてよく話し合い、その結果、障害児であっても皆で協力して生み育てていこうというのであれば胸を張って生んでもらいたい。だけど、育てていく自信がなかったり、旦那さんの理解が得られないようなときは堕胎も一つの方法として視野に入れるのは決して間違ってはいないということだ。綺麗ごとじゃ済まされないのだ。
金も出さない、協力もしないという赤の他人がお気楽な感情論で人の一生を左右するようなことを軽々しく語るな、バカタレ。