あれから二年か、早いな。
とにかく早かったという感想しかない。
あの日は雪がちらつく程の非常に寒い一日だった。
なまり色にくすむ空を見上げ、いったいこれからどうなるのだろうかと途方に暮れた。
娘のことが心配で初めて別れた妻に連絡をした。
一刻も早く帰宅して両親の顔が見たいのに車は渋滞でまったく動かず、延々と続く赤いテールランプを恨めしく思い、イライラして何度も何度もハンドルを叩いた。
途中で車を捨て、停電で暗闇の中、たまたま車に積んであったバスタオルをマフラー代わりにして、徒歩で実家に迎った。
家屋の損傷はそれなりだが、両親とも怪我もなく無事であったのが不幸中の幸い。
顔を見た瞬間、急に涙腺が緩み、俺は声をあげて泣いた。
一晩中鳴り響くサイレンの音、治まることのない余震、なのに両親と合流できた安堵からなのだろう、泥のように眠りこけた。
そういや何十年ぶりだろう、親子で川の字になって一つの部屋で寝たのは。
4、5時間熟睡をし、目覚めると東の空には未だかつて見たことのないほど大きな黒煙がもくもくとあがっていた。
黒煙が日立港で起きた大きな火災だということを知ったのは震災当日から数日後、その時はただならぬことが起きているなということしか分からなかった。
ストーブで沸かしたコーヒーを啜りながら思ったのはこれからどうなってしまうんだろうかってこと。
あんなに不安な朝は経験したことがない。
こうして考えると二年経つのに当日の記憶は色褪せることなく、脳裏にしっかりと刻まれている。
恐らく死ぬまで忘れないんだろうなと思う。
そして改めて思う、俺は被災者なんだよなって。
でもだからといって被災者として何かを訴えるつもりは毛頭ない。
たとえば原発、個人的には賛成だが反対する人に対抗して非難をするつもりはない。
ましてや避難を余儀なくされている方達に向かっていくら俺が厚顔無恥でも原発賛成だとは絶対にいえない。
二年前、絆、絆と絆の安売りをしてた連中にだってそう、何もいうつもりはない。
被災地のことをいくら憂いたって自分が被災してなかったら苦しみは分からず、所詮はムードに流された他人事なんだろうぐらいにしか思っていない。
もちろん全員がそうだとは思わないけどさ。
当事者以外は時が経てば風化してしまうのは当たり前でそこを責めるつもりなんてさらさらない。
震災後、まわりが見えずに一時、無気力症候群に陥った。
何もかもが糞に思えて腹立たしく、頑張ろう日本というフレーズを聞くたびに、余計なお世話だ、バカヤロウとスピーカーをぶち壊してやりたい衝動にかられたもんだが結局出た答えはどこまでいっても俺は俺であり、他人がどうこうとは関係なく、自分自身がやりたいことを好きにやればいいんじゃないかと決めたら随分と心は楽になった。
数日前駄文に書いたように二年も経つのに何も見つからないのである。
だったらあまり深く考えず、見つける必要もなければ、見つからないからといって悲観に暮れる必要もないじゃんということに気付いた。
とりとめのない書き込みであるが思っていることをとりあえず書いてみた。