杭はてめぇで打つもの、悔いはてめぇで決めるもの
- 2023/02/03
- 16:27
朝飯は食わず。昼飯はパチンコ屋に併設された食堂でカツカレー。カツは冷凍、カレーはレトルト、いいところがまるでなしのやっつけ仕事だが案外うまい。冷凍でも揚げたてであればカツはうまい、レトルトであっても熱々のカレーはうまい。
パチンコ屋を出たのは20時、この日はガルパン・劇場版(パチンコの方)で4万円負けた。クラクラする。朝2万円近く勝っていたのに終わってみればこのざまだ。吐きそうだ。吐きそうでも腹は減る。そのままかつやに駆け込み、カツカレーを食べる。チェーン店とはいえ、ちゃんとお店で仕込んだ豚カツはやはりうまい。百円の割引券を使うとパチ屋で食ったやっつけ仕事のカツカレーよりもかつやの方が安く済む。4万も負けておきながら、百円の割引券にありがたみを感じるとはいったいどういう金銭感覚をしているのかと自分でも呆れてしまうものの、そこがいかにも俺らしくていいとも思う。これが数日前の出来事。
一日に二度のカツカレー、栄養士が見たら卒倒するような食生活だが、別にこれでいい。誰にも迷惑を掛けていない。無鉄砲は生まれつきだ。
親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしているとは夏目漱石の坊ちゃん、親譲りかどうかはさておき、無鉄砲で損ばかりしているのはまさにその通り。そうじゃなかったら今頃御殿で暮らしている。だが、悔いはない。
結局、人間が行きつくのはこの悔いの部分であると思う。
しかしながら悔いは難しくもある。何故なら悔いは凡そすべてが主観だからだ。明確な答えを導き出すのは不可能だ。
たとえば誰かに告白する。
フラれた心の痛みよりも思いの丈を相手にぶつけ、告白した、その行為自体に価値を見出し、これで悔いを残さずに済んだと満足するのか、或いは告白せずにいた方が失恋による心の痛みを受けずに済む分、却って悔いはなかったと納得をするのか。
身も蓋もないが、これはもうやはり自分次第としかいいようがない。恋愛成就が叶い、うまくお付き合い出来れば一番いいのだが残念ながら世の中そんなに甘くない。
また、告白する相手にもよる。今後接点のない通りいっぺんの女性(男性)であればフラれた心の痛みはあっても私生活やビジネスに実害が生じない分、悔いを残さず済む。この利害関係のない告白はうまくいけば勿怪の幸い、儲けものと、もはや恋愛とは別のゲーム感覚で告白を楽しむ人もいるのかもしれない。反対に仕事上の関係など、付き合う、付き合わないを問わず、今後も何かしらの関係が続くのであれば失恋によって社内がギクシャクするなど実害を被るケースもあるため、気持ちを押し殺し、むしろ黙っていた方がもしかすると意外に悔いは残らないのかもしれない。
ただ、それだって、その意中のお相手が誰かと付き合い始めたり、結婚をすると、あの時自分が告白していればと後悔をしてしまうかもしれない。
だからこそ、悔いの部分は自分自身で好き勝手にコントロールすればいいと思っている。
所詮、悔いなんてものは自分が都合よく決めればいい。
なった経験がないので分からないが、恐らく、うつ病になる人は悔いの部分をコントロールするのが極めて下手な人だと思う。カツカレーを日に二度食べて体を壊しても、うまい物を人の倍食べたので満足、こんな真似はなかなかできまい、ガハハハッと笑い飛ばして、病気になったのは微塵も後悔しない。実際、俺はそうしてきた。多分、心を病んでしまう人はなんであの時一日に二回もカツカレーを食べてしまったのかと、そればっかりを考えて落ち込んでしまうのだろう。済んだ話をいくら嘆いても過去は変えられないのに、いつまでも過去を悔いてばかりいるのはマゾヒズム以外のなにものでもない。
結局悔いは感受性の問題であるからどんなに考えたところで正解がない、それならいっそのことすべてを肯定してしまえばいい。
但し、迷惑行為はダメ、否定してとにかく悔いろ。廻っている寿司に唾をつけ有名になれてよかった、これで俺もいっぱしのインフルエンサー、いよいよ人気ユーチューバーの仲間入りだと勘違いしてしまうアホは太宰治の人間失格。これでは救いようがない。救いようがないアホといえばカンダタ、天国に昇れるせっかくの大チャンスを自分の卑しさから無にしてしまった。こちらは芥川龍之介の蜘蛛の糸。
次回は川端康成で決めたい。
なんのこっちゃ。
パチンコ屋を出たのは20時、この日はガルパン・劇場版(パチンコの方)で4万円負けた。クラクラする。朝2万円近く勝っていたのに終わってみればこのざまだ。吐きそうだ。吐きそうでも腹は減る。そのままかつやに駆け込み、カツカレーを食べる。チェーン店とはいえ、ちゃんとお店で仕込んだ豚カツはやはりうまい。百円の割引券を使うとパチ屋で食ったやっつけ仕事のカツカレーよりもかつやの方が安く済む。4万も負けておきながら、百円の割引券にありがたみを感じるとはいったいどういう金銭感覚をしているのかと自分でも呆れてしまうものの、そこがいかにも俺らしくていいとも思う。これが数日前の出来事。
一日に二度のカツカレー、栄養士が見たら卒倒するような食生活だが、別にこれでいい。誰にも迷惑を掛けていない。無鉄砲は生まれつきだ。
親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしているとは夏目漱石の坊ちゃん、親譲りかどうかはさておき、無鉄砲で損ばかりしているのはまさにその通り。そうじゃなかったら今頃御殿で暮らしている。だが、悔いはない。
結局、人間が行きつくのはこの悔いの部分であると思う。
しかしながら悔いは難しくもある。何故なら悔いは凡そすべてが主観だからだ。明確な答えを導き出すのは不可能だ。
たとえば誰かに告白する。
フラれた心の痛みよりも思いの丈を相手にぶつけ、告白した、その行為自体に価値を見出し、これで悔いを残さずに済んだと満足するのか、或いは告白せずにいた方が失恋による心の痛みを受けずに済む分、却って悔いはなかったと納得をするのか。
身も蓋もないが、これはもうやはり自分次第としかいいようがない。恋愛成就が叶い、うまくお付き合い出来れば一番いいのだが残念ながら世の中そんなに甘くない。
また、告白する相手にもよる。今後接点のない通りいっぺんの女性(男性)であればフラれた心の痛みはあっても私生活やビジネスに実害が生じない分、悔いを残さず済む。この利害関係のない告白はうまくいけば勿怪の幸い、儲けものと、もはや恋愛とは別のゲーム感覚で告白を楽しむ人もいるのかもしれない。反対に仕事上の関係など、付き合う、付き合わないを問わず、今後も何かしらの関係が続くのであれば失恋によって社内がギクシャクするなど実害を被るケースもあるため、気持ちを押し殺し、むしろ黙っていた方がもしかすると意外に悔いは残らないのかもしれない。
ただ、それだって、その意中のお相手が誰かと付き合い始めたり、結婚をすると、あの時自分が告白していればと後悔をしてしまうかもしれない。
だからこそ、悔いの部分は自分自身で好き勝手にコントロールすればいいと思っている。
所詮、悔いなんてものは自分が都合よく決めればいい。
なった経験がないので分からないが、恐らく、うつ病になる人は悔いの部分をコントロールするのが極めて下手な人だと思う。カツカレーを日に二度食べて体を壊しても、うまい物を人の倍食べたので満足、こんな真似はなかなかできまい、ガハハハッと笑い飛ばして、病気になったのは微塵も後悔しない。実際、俺はそうしてきた。多分、心を病んでしまう人はなんであの時一日に二回もカツカレーを食べてしまったのかと、そればっかりを考えて落ち込んでしまうのだろう。済んだ話をいくら嘆いても過去は変えられないのに、いつまでも過去を悔いてばかりいるのはマゾヒズム以外のなにものでもない。
結局悔いは感受性の問題であるからどんなに考えたところで正解がない、それならいっそのことすべてを肯定してしまえばいい。
但し、迷惑行為はダメ、否定してとにかく悔いろ。廻っている寿司に唾をつけ有名になれてよかった、これで俺もいっぱしのインフルエンサー、いよいよ人気ユーチューバーの仲間入りだと勘違いしてしまうアホは太宰治の人間失格。これでは救いようがない。救いようがないアホといえばカンダタ、天国に昇れるせっかくの大チャンスを自分の卑しさから無にしてしまった。こちらは芥川龍之介の蜘蛛の糸。
次回は川端康成で決めたい。
なんのこっちゃ。