道徳が教科になるとか
- 2018/03/28
- 19:20
小学校が2018年度から、中学校が2019年度から道徳が教科になるとか、道徳教育は大切だと思うのですが、教科にするというのはどうなのかという思いが拭えない覆面です。
嘘はついてはいけません、これって道徳教育のもっとも基本的なことだと思うのですが、公文書を偉い人が書き換えてしまうということは道徳教育的にはどうなのでしょうか?
政府与党のためには嘘もつかなくてはならず、公文書の書き換えも厭わない、また、嘘をつくと偽証罪に問われる証人喚問でも「刑事訴追の可能性があるためお答えは差し控えます」と答えることは果たして道徳的に正しいのでしょうか?
この辺のことを教師や文部省の役人にも聞いてみたい。
いやマジな話、こんなこと小中学生には言うべきことじゃないと思いますが大人になると倫理的にそれってどうなのって場面でも会社のために押し通さなくてはならないことってあると思う。経営の神様、松下幸之助さんは渋沢栄一の論語と算盤を地で行ったとてつもない善人だと思いますがパナソニックがここまで巨大企業になったということは酸いも甘いも噛み分けた結果だと思う。別に非難するつもりなどさらさらありませんが相応にえげつないこともしてきたと思うのです、実際、過労死や労働基準法違反が大きな話題になったしな。
道徳の教科が今後どういうふうに展開されていくのか分かりませんが社会に出ても恥をかかないためであるという大義名分であるならこういったことも考えるべきでしょう。
道徳教育って言うまでもなく凄く難しい。
佐川さんにお子さんがいるのかどうか分かりませんが、仮にいたとして、佐川さんはお子さんに、「大義のためには嘘も方便、ついても構わない」と教えているのでしょうか、それともやっぱり人として正直に正しく生きなくてはならないと説いているのでしょうか、どっちにしたって説得力がない。いや、考えようによってはそれで事務方のトップにまで上り詰めたのだから説得力は満載なのか、アホな俺の脳みそじゃ分かりません。
それと俺の場合、震災を機に色々と考え方が変わったということがある。
防災庁舎で最後まで市民の命を慮り、放送を続けた町役場の職員、彼女の行為を称賛に値する美談と捉えていいのかという気持ちが正直未だに拭えないでいる。海のそばにある老人ホーム、身動きの取れないお年寄りを助けに向かい津波に飲まれた青年、彼の正義を美談として捉えていいのか、素直に受け入れられない自分がいるのである。
合理的に考えれば言葉は悪いが助からない人を助けに行ってはならないのが戦場の掟。残酷だが人が生きるためには見殺しにしなくてはならないのである。
もちろん、人を助けるため、わが身を賭した正義感に満ち満ちたその行動力は後世に語り継ぐべきであろうとは思うが、また同じような場面に遭遇した時、同じように命を投げ捨ててまで助けに行かなくちゃならんものなのか疑問である。個人的な意見でいうのならば戦場の掟同様、見殺しにするしかないというもの。是非はともかく、自衛隊や警察、消防、地域の消防団、非常時の行動指針として震災後掲げられたのはまずは自分の安全を確保し、余裕があるときのみ助けに行けということである。正しい判断だと思うがやっぱり禁を破り、身を賭して助けに行く正義感の強い人もいると思う。
真の道徳って実はこういう場面、岐路に立たされたときにどういう行動をするのが正しいのだろうかと考えることだと思うのです。
体の不自由な人や子供やお年寄りには優しく、こんなことはわざわざ教科にする以前の問題だ。
真剣に道徳を議論するのであれば会社としてリストラは正しいのか、頭の悪い奴を上手に騙しながら遣うことが会社が生き残るためには必要なのだとかを議論する必要があろうと思う。
俺のような合理主義者もいれば情に厚い損するばかりの人もいると思う。得た賃金の差はあったとしても道義的に正しい、正しくないはまったくの別次元の話でもある。カネはなくとも正直に生きて幸せだと思う人もいればカネこそが人生だという人もいる。どちらが正しいという話でもない。
こういう本質を考えずに愛とはなんですかみたいな授業をされても愛(I)とはエッチ(H)の後にあるもの(アルファベットの順番な、念のため)なんて今時安い場末のキャバクラでも言わねぇような話に終始するだけでさ、ここら辺はよくよく慎重に考えるべきだと思うのです。
嘘はついてはいけません、これって道徳教育のもっとも基本的なことだと思うのですが、公文書を偉い人が書き換えてしまうということは道徳教育的にはどうなのでしょうか?
政府与党のためには嘘もつかなくてはならず、公文書の書き換えも厭わない、また、嘘をつくと偽証罪に問われる証人喚問でも「刑事訴追の可能性があるためお答えは差し控えます」と答えることは果たして道徳的に正しいのでしょうか?
この辺のことを教師や文部省の役人にも聞いてみたい。
いやマジな話、こんなこと小中学生には言うべきことじゃないと思いますが大人になると倫理的にそれってどうなのって場面でも会社のために押し通さなくてはならないことってあると思う。経営の神様、松下幸之助さんは渋沢栄一の論語と算盤を地で行ったとてつもない善人だと思いますがパナソニックがここまで巨大企業になったということは酸いも甘いも噛み分けた結果だと思う。別に非難するつもりなどさらさらありませんが相応にえげつないこともしてきたと思うのです、実際、過労死や労働基準法違反が大きな話題になったしな。
道徳の教科が今後どういうふうに展開されていくのか分かりませんが社会に出ても恥をかかないためであるという大義名分であるならこういったことも考えるべきでしょう。
道徳教育って言うまでもなく凄く難しい。
佐川さんにお子さんがいるのかどうか分かりませんが、仮にいたとして、佐川さんはお子さんに、「大義のためには嘘も方便、ついても構わない」と教えているのでしょうか、それともやっぱり人として正直に正しく生きなくてはならないと説いているのでしょうか、どっちにしたって説得力がない。いや、考えようによってはそれで事務方のトップにまで上り詰めたのだから説得力は満載なのか、アホな俺の脳みそじゃ分かりません。
それと俺の場合、震災を機に色々と考え方が変わったということがある。
防災庁舎で最後まで市民の命を慮り、放送を続けた町役場の職員、彼女の行為を称賛に値する美談と捉えていいのかという気持ちが正直未だに拭えないでいる。海のそばにある老人ホーム、身動きの取れないお年寄りを助けに向かい津波に飲まれた青年、彼の正義を美談として捉えていいのか、素直に受け入れられない自分がいるのである。
合理的に考えれば言葉は悪いが助からない人を助けに行ってはならないのが戦場の掟。残酷だが人が生きるためには見殺しにしなくてはならないのである。
もちろん、人を助けるため、わが身を賭した正義感に満ち満ちたその行動力は後世に語り継ぐべきであろうとは思うが、また同じような場面に遭遇した時、同じように命を投げ捨ててまで助けに行かなくちゃならんものなのか疑問である。個人的な意見でいうのならば戦場の掟同様、見殺しにするしかないというもの。是非はともかく、自衛隊や警察、消防、地域の消防団、非常時の行動指針として震災後掲げられたのはまずは自分の安全を確保し、余裕があるときのみ助けに行けということである。正しい判断だと思うがやっぱり禁を破り、身を賭して助けに行く正義感の強い人もいると思う。
真の道徳って実はこういう場面、岐路に立たされたときにどういう行動をするのが正しいのだろうかと考えることだと思うのです。
体の不自由な人や子供やお年寄りには優しく、こんなことはわざわざ教科にする以前の問題だ。
真剣に道徳を議論するのであれば会社としてリストラは正しいのか、頭の悪い奴を上手に騙しながら遣うことが会社が生き残るためには必要なのだとかを議論する必要があろうと思う。
俺のような合理主義者もいれば情に厚い損するばかりの人もいると思う。得た賃金の差はあったとしても道義的に正しい、正しくないはまったくの別次元の話でもある。カネはなくとも正直に生きて幸せだと思う人もいればカネこそが人生だという人もいる。どちらが正しいという話でもない。
こういう本質を考えずに愛とはなんですかみたいな授業をされても愛(I)とはエッチ(H)の後にあるもの(アルファベットの順番な、念のため)なんて今時安い場末のキャバクラでも言わねぇような話に終始するだけでさ、ここら辺はよくよく慎重に考えるべきだと思うのです。