覆面の北枕
https://kitamakura.jp/
元違法風俗店経営者の好き勝手クソったれブログ
ja
-
https://kitamakura.jp/blog-entry-3043.html
試しに冒頭だけを書いてみた
以前、小説を書きたいと書いた。その第一歩として、試しにいくつかの言葉をしたためてみた。まだ草稿の段階で、至らない点も多いが、この方向で物語を綴っていきたい。始まりはいつも、完璧から遠い。でも、そこから学び、成長していくのが創作の醍醐味。今はまだ、物語の小さな種をまいたばかり。この種から、どんな物語が芽吹くのか、自分でもよくわかっていないが暇を見つけて書いていきたい。まとまったらなにかに発表しようと
その第一歩として、試しにいくつかの言葉をしたためてみた。まだ草稿の段階で、至らない点も多いが、この方向で物語を綴っていきたい。始まりはいつも、完璧から遠い。でも、そこから学び、成長していくのが創作の醍醐味。今はまだ、物語の小さな種をまいたばかり。この種から、どんな物語が芽吹くのか、自分でもよくわかっていないが暇を見つけて書いていきたい。まとまったらなにかに発表しようと思う。一体どうなることやら。
平成18年3月10日、中学校の卒業式の日だ。
大洗町立磯浜中学。それは大洗町にある、生徒数わずか200人足らずの公立中学校だ。この時、ぼくたちはまだ知る由もない。五年後に訪れる未曾有の大地震を、そしてアニメがきっかけでこの町が再び息を吹き返す奇跡を。
ぼくは教室のどこかで響く友達の声を背にして、ベランダに静かに立った。手には、大学ノートから破り取った一枚の紙。「さよならは新しい始まりの合図」と少し誌的な文字で記されたメッセージを書き、紙飛行機にして飛ばした。
紙飛行機に乗せたのは、過去との決別なのか、それとも未来への希望なのか、ぼくにも、その答えは分からない。
海からの春風が、穏やかにぼくの頬を撫でる。少し伸びた前髪を優しく揺らす。普段なら何気なく見過ごす水平線も、今日に限ってはなぜかもう少し見ていたい。水平線を見つめるぼくの心は、さよならと新しい旅立ちの間で揺れ動いていた。
]]>
未分類
2024-03-17T20:24:21+09:00
覆面
FC2-BLOG
-
https://kitamakura.jp/blog-entry-3042.html
いらないし、興味もないのだが、これっぽちも
小料理屋の灯りがほのかに揺れる。そこは日々の喧騒を忘れさせてくれる場所。最近はここばっかりだ。カウンターで飲んでいると、隣席の男性が声をかけてきた。当たり障りのない返答に終始する。彼の話にも、彼自身にも残念ながらまったく興味がない。すると、彼は名刺を差し出す。この行為も、内心では迷惑この上ない。相手の立場や肩書に興味を持つ気持ちはなく、ビジネスのきっかけを見出すことにも、これっぽっちも意欲が湧かな
すると、彼は名刺を差し出す。この行為も、内心では迷惑この上ない。相手の立場や肩書に興味を持つ気持ちはなく、ビジネスのきっかけを見出すことにも、これっぽっちも意欲が湧かない。自らが連絡を取ることもなければ、自分の素性を明かすこともない。名刺交換という社交の儀礼を、ただ静かに受け流す。
笑みを浮かべつつも、頭にあるのは帰宅したら、その名刺をそっとゴミ箱に納めようという思いばかり。この行為が、彼にとっては失礼にあたるかもしれないという自覚はある。しかし、名刺を渡された瞬間に「いりません、結構です」と断ることの方が、より大きな無礼となり得る。そう考えれば、こっそりと名刺を処分することは、一種の優しさとも言えるのではないだろうか。
こういうことがあるから異業種交流会なども嫌いなのだ。渡された名刺は全部捨てている。そしてこちらからは渡さない。
この歳になると、新たな交友関係を築くことへの渇望は、もはやない。日々の生活に満足し、既存の人間関係を大切にする。その結果、干されて食えなくなればそれが潮時と思って諦める。
個人的な見解として述べる。異業種交流会や業界団体の集まりに頻繁に参加し、そこから横の繋がりを広げることでしか存続できないビジネスモデルに対して、疑問を感じることがある。真に価値あるビジネスは、その提供するサービスや商品の質によって成り立つべきであり、単に人脈を広げることに依存しているようでは、その本質を見失っていると言える。
もちろん、人脈はビジネスにおいて重要な要素の一つであり、多くの場合、新たな機会を生み出す原動力となる。
だが、人脈形成がビジネスの主目的となってしまう場合、そのビジネスの持続可能性や本質的な価値について、再考する必要があるのではないか。「いいね!」をつけることをビジネスと勘違いしている人がどれほど多いことか。ビジネスの基盤となるべきは、その事業が社会にもたらす価値や、顧客のニーズに応える能力にあるべきであり、人脈の広さや、表面的なつながりの多さだけに依存している状態は、望ましいとは言えない。安直過ぎるとすらいえる。
件の彼が、そこまで考えて名刺を差し出しとは思えぬが、見ず知らずの人間に軽々しく名刺を出すような人と仲良くなるつもりはさらさらない。軽やかな手つきで名刺を渡す行為が、必ずしも相手にとって歓迎されるとは限らないのが、人間関係の難しさである。名刺を受け取っても、どう扱ってよいか迷うことも多く、よほど几帳面な人でもない限り、興味のない人の名刺など捨てられて終わりだ。後生大事に取っておく理由が見当たらない。当然、名刺を渡された方は迷惑するだろうということを予め、渡す側の責務として見越す必要がある。そのような基本的な配慮が欠けている時点で、深い関係を築くことなど出来ない。
要は話しかけんなよということだ。放っておいてくれ。喋りたくないのだ。
]]>
未分類
2024-03-13T13:46:27+09:00
覆面
FC2-BLOG
-
https://kitamakura.jp/blog-entry-3041.html
13年が経ちました
時は流れ、あの震災から13年。過ぎ去った日々は、遠い昔の出来事のようにも、昨日のことのようにも感じられる。記憶の片隅に鮮明に残る瞬間と、あれだけの強い衝撃にも関わらず、すっぽりと欠け落ちた部分が交錯する。ふと心に浮かぶのは、災害が教えてくれた日本人の美しさと醜さの両面である。被災された方々が示した冷静さと、家族や友人への深い思いやり、そして立ち直ろうとする力強さ。妻を失いながらも、救助者に感謝を述べ
ふと心に浮かぶのは、災害が教えてくれた日本人の美しさと醜さの両面である。
被災された方々が示した冷静さと、家族や友人への深い思いやり、そして立ち直ろうとする力強さ。妻を失いながらも、救助者に感謝を述べる夫の言葉。「船も家もなくなったけれど、子どもが無事であれば何もいらない」という女性の心からの言葉。厳しい寒さの中、避難所での長い行列に辛抱強く並ぶ被災者たち。彼らの姿は、日本人が歴史を通じて培ってきた強い倫理観の現れかもしれない。災害時における暴動や略奪の報告がないのも、この国の倫理観が背景にあると考えられる。
震災のとき、話題になった話がある。今、改めて記しておく。
震災の直後、福島第一原発から25キロ離れた被災地に、ひとりの警察官が派遣された。その警察官は、在日ベトナム人の両親を持つ日本生まれの苦学生であり、大学院で博士号を取得した後、日本に帰化し警察官となった。彼の選択は、両親の苦労を乗り越え、人のために尽くすという強い意志に基づいている。
ある夜、彼が被災者に食料を配る手伝いをしていた学校でのこと。寒い校舎でTシャツ短パン姿の9歳の男の子が、配給の列に静かに並んでいるのが目に留まった。
「お父さんが車ごと津波に呑まれるのを校舎の窓から見てしまった、自宅が海岸近くなので、たぶんお母さんや幼い妹弟も助かっていないと思う」
地震と津波が発生した際、学校近くで仕事をしていた父親が心配して駆けつけるも、その父が津波に飲み込まれるのを、少年は校舎の窓から目撃した。自宅が海岸近くにあるため、母や幼い兄弟も助からなかったと考えられる。
この少年の話を聞いた警官は、自らのコートを彼に掛け、自分の食料を手渡した。しかし、少年はその食料を受け取りながらも、他にもっと飢えている人々がいるだろうと考え、配給箱に置いてきた。
「ありがとう、でも他にも沢山のひとが、僕よりもっとおなかを空かせているだろうし…」
警察官は忘れかけていた熱いものがふと湧き上がって、涙を見られないように少年から顔をそらした。
この出来事から浮かび上がるのは、災害がもたらす最も厳しい状況の中でも、人々は他者を思いやる心を失わない。自己犠牲と相互扶助の精神は、日本社会に根ざす重要な価値である。災害時に見せる強さと優しさは、社会の回復力と再生の力を象徴し、世界に向けても、互いに支え合うことの大切さを示している。
震災を通じて見えてきた教訓を胸に刻み、未来への道を進むべきである。互いに助け合い、困難に立ち向かう姿勢こそが、社会をより強く、より優しくする。
こうして、子どもからお年寄りまで強い倫理観に従って真っ直ぐに生きようとしているにもかかわらず、やっぱり一部ではあるがクズが存在するのもまた事実だ。
法外な価格を要求する修繕業者や、困難な状況を利用する火事場泥棒なども散見された。足元を見て、ぼったくり価格で飲食物を売る不埒な人間もいたという。困っている人々の弱みにつけ込む卑劣さには、深い軽蔑を禁じ得ない。今回起きた能登半島地震でも同様の事例が報告されている。検挙されていないものを含めると実際は相当な数の被害が出ているのではないかと推察される。
日本人としての誇りを感じさせる一方で、社会の暗部も見せつけられた。震災は私たちに多くを教えてくれた。美しい倫理観を持つことの大切さと、いつの時代も存在する問題に目を向け、向き合っていく勇気。災害がもたらした教訓は、今後の私たちの指針となるだろう。
亡くなられたすべての方に心より哀悼の意を表します。]]>
未分類
2024-03-11T10:50:09+09:00
覆面
FC2-BLOG
-
https://kitamakura.jp/blog-entry-3040.html
政治家の鑑、泣かせる話だ
和歌山の地にて、自民党青年局が集う会があり、その後の懇親会にて、舞うは過激な舞台。参加したのは国の舵を取る者たち、地方を守る議員たち。舞台に立つ女性たちの衣、次第にその糸を解き、世は酔いに任せた下卑な笑みを浮かべる。下着姿のダンサーに口移しでチップを渡す参加者の姿もある。羽目を外したその舞台は、ただの娯楽では済まされない。国を担う者たちが、その責任と義務を忘れたかのような一夜。それは、有権者の心を
和歌山の地にて、自民党青年局が集う会があり、その後の懇親会にて、舞うは過激な舞台。参加したのは国の舵を取る者たち、地方を守る議員たち。舞台に立つ女性たちの衣、次第にその糸を解き、世は酔いに任せた下卑な笑みを浮かべる。下着姿のダンサーに口移しでチップを渡す参加者の姿もある。
羽目を外したその舞台は、ただの娯楽では済まされない。国を担う者たちが、その責任と義務を忘れたかのような一夜。それは、有権者の心を激しく揺さぶり、怒りの声が天に昇る。ある自民党の国会議員は「ありえない。こんなことをやっていたら自民党が下野してしまう」とまで嘆いたとされる。
梶山幹事長代行の「公金は使われていない」との言葉も、有権者の燃え盛る怒りの炎を鎮める消火剤にはならない。火消しが空虚に響く。
しかし、よくよく考えてみれば彼らこそ、真に信じるべき政治家ではないか。表面上は正義や倫理観を強く語り、裏では金銭や女性問題に溺れる。これは、長年にわたり囁かれてきた政治家の典型的な姿ではないか。彼らは、世間が描く政治家の理想像を、寸分たがわず、見事に体現しているとも言える。期待を裏切らないという意味ではもっとも政治家らしい。
期待を裏切らない彼らに頼むことで、公共事業の入札で便宜が図られることもあるかもしれない。地方銀行や信用金庫での融資が議員の口利きで実現する場合もあれば、喧嘩や痴漢などの軽犯罪に関しては、議員が所轄警察署の署長に連絡を取り、事態を穏便に済ませるよう手配することもあり得るだろう。
市民の願いに応え、そのために尽力する彼らの態度は、まさに政治家の鑑だ。こうした市民を第一に考える心を持った政治家こそが、社会の灯となり、希望に満ちた未来への道を照らすべき存在である。
そもそも政治家に倫理観を求めること自体が、既に誤りであるのだ。裏金を裏金と呼んではならず、自民党の中では「政治資金の問題」と呼ぶそうだ。国会議員になれば、納税の義務すらも果たす必要がない。
不確実なことはいえないが、セクシーダンサーが舞うコンパニオンクラブ。これらの店が、堅気の商いであるとは到底思えない。暴力団組織の直営ではなくとも、その背後には見えない力の糸が繋がっていることもあると考えるのが自然だ。
市民からの利益供与を禁じ、彼らの生きる道を狭める暴力団排除条例が施行されてから、既に足掛け14年の歳月を重ねている。かつては雄々しく、その名を轟かせた組織も、今では伝統的な資金源の途絶えと摘発の手が伸び、生活の糧を失いつつある。その結果、特殊詐欺や違法薬物を扱う一部の組員を除けば、多くの組員が生きる道を見失い、組を離れざるを得なくなっている。
このような中、末端組員たちの苦境を思いやり、セクシーダンサーを呼んで少しでも彼らの生活に彩りを加え、寄り添う姿勢を見せるとは、人情味溢れる行為ではないか。泣かせる話だろう。
ただ、泣きたいのはこちらの方でもあるのも事実、なんというか、全員まとめてぶっ飛ばしたいと思っているのはなにも自分だけではないはずだ。
]]>
未分類
2024-03-09T21:08:59+09:00
覆面
FC2-BLOG
-
https://kitamakura.jp/blog-entry-3039.html
もしかして僕も境界知能なんじゃなかろうか
最近耳にすることが増えた「境界知能」という言葉について、思索を巡らせてみたい。IQの測定における、いわば普通とされる範疇と知的障害の狭間にあたる、IQ70以上85未満の状態を指す。統計によれば、人口の約14パーセントがこの区分に属するという。かつては世界保健機関もこの状態を「境界線精神遅滞」と認定していたが、現在ではその枠組みからは外されている。認知の低さが特徴で、将来の予測や計画性に乏しく、日常生活の中で
認知の低さが特徴で、将来の予測や計画性に乏しく、日常生活の中でのお金の扱いや作業の効率性に問題を抱えやすい。また、指示に従って行動することが困難で、物忘れも多いとされる。このような特性は、発達障害がある人々とも重なる部分があり、特に発達障害を持たない子どもたちにおいて顕著に現れることがある。ADHDやASD、学習障害、発達性協調運動障害といった発達障害も、境界知能を持つ人々の中には見られるそうだ。
X(旧ツイッター)には「れいわ新選組の支持者は“IQ85以下の境界知能”」「クソリプ送ってくるヤツもほとんど境界知能」「卓上トッピングにイタズラするヤツも境界知能」という声のほか、詐欺に騙される人やミスばかりの部下に対してなど、何にでも決めつける発言が問題となっている。
問題の是非はともかく、偉そうなことを言いつつ、自分自身が境界知能であったら笑えない、いや、むしろネタとして笑えるか。
人間の探究心は、未知への一歩を踏み出させる。自らの知能指数(IQ)が何であるか、その数値に興味を抱くは、この好奇心の一例だ。ポーランドの会社が運営するIQテスト、日本語での受験が可能とのこと。オンラインでの決済手続きは不安も伴うが、知の探求にはそれもまた一つの試練であるか。試しに受けてみる。
結果は114。一般的な基準値100、平均が90から110の間と言われ、110から130のIQは優秀と評価されることが多く、130を超えると「非常に高い知能」と判断され、今回の114は優秀の域に入る。やっぱりな、と内心でにやりとする。五十の中年男が即興で受けた割りにはなかなかのものではないか。負け惜しみをいえばオンライン診断と馬鹿にせず、もっと真剣にやればよかったとの悔いは残る。1、6、12、19、27、次にくる数字はなにみたいな問題にやたらと手こずってしまった。
それでもこの結果を見ると、子どもの頃からもっと真剣に勉強に励んでいたら、総理大臣は無理でも県知事くらいの地位には就けたかもしれないと思うことしきり。しかし、実際にはそこそこのIQをどう活かしたかといえば、大半が悪だくみ。だがその悪だくみも、どこか良心が邪魔をして、大きなシノギには手を出せず、金の代わりに手に入れたのは、5ちゃんねるや爆サイでの誹謗中傷のみという、クソみたいな対価。
]]>
未分類
2024-03-06T13:39:33+09:00
覆面
FC2-BLOG